第2話 四十九パーセントの境界線

【午前】


小雨が降る土曜日だった。朝の六時に目覚めて、縁側のガラス戸を開けると、路地裏の梅の木にぽつりぽつりと水滴が溜まっていた。三月半ばというのに、まだ蕾の固い梅だ。自治会の朝礼用のジャンパーを羽織り、傘を手に家を出る。商店街の石畳は濡れて光り、豆腐屋の前を通ると、湯気が白く立ち昇っていた。


市役所の会議室は、三階の窓から川を見下ろせる場所にある。村井大樹係長は、すでに資料を広げて待っていた。


「本田会長、朝からお越しいただきありがとうございます」


村井は、いつも通りの丁寧な口調で挨拶をした。四十二歳、まだ子供のいない独身だが、村のことはよく知っている。私は、コートの肩の雨粒を払いながら、彼の前に座った。


「条例の運用実例、見せてもらいましょうか」


私が切り出すと、村井は「はい」と応えて、一枚の紙を差し出した。そこには、「収入五十%基準」の文字が並んでいた。


「兼業議員の報酬は、村の仕事の収入が総収入の五十%未満でなければならない、というのが今回の条例の柱です。法的枠組みとしては、これが明確なラインです」


「村の仕事の収入が四十九%なら、議員を務けられる、ということだな」


私が言うと、村井は「その通りです」と頷いた。窓の外では、雨足が強くなった。川面を風が撫でて、波紋が広がる。


「でも、村井係長。数字で人を縛るのは、どうも気が引ける。商店街の連中は、『また上から決められた』って、眉をひそめるばかりだ」


私の言葉に、村井は一瞬、目を伏せた。それから、ゆっくりと口を開いた。


「私たち行政も、悩んでいるんです。村議会を維持するためには、制度が必要だ。でも、制度だけじゃ、人の心は動かせない。本田さんがおっしゃる『村民の心を動かす制度』を、どう作るか……」


会議室の蛍光灯が、静かに瞬いた。私は、傘の柄を握りしめながら、村井の顔を見つめた。雨音が、遠くで響いている。


【午後】


市役所を出て、商店街に戻ると、豆腐屋の前に、おやじさんが立っていた。山田豆腐店の三代目、山田源三さんである。私より十歳年下の六十四歳だが、もう四十年も豆腐を作り続けている。


「会長、ちょうどよかった。入って、お茶でも飲んでいかれよ」


おやじさんは、白い作業着の胸をはだけながら、私を店に招じ入れた。店内は、大豆の香りと、湯気でむっとしていた。カウンターには、今朝絞ったばかりの木綿豆腐が並んでいる。


「実はな、来月の村議選、出てみようかと思ってるんだ」


おやじさんが、突然、そんなことを言い出した。私は、驚いて、茶碗を置いた。


「議員? お前が?」


「うん。村の補助金で、新しい製造設備を導入しただろ。あれがな、俺の村での仕事の収入、ちょうど四十九%なんだよ。条例でいう、あのラインを、ぎりぎりクリアしてる」


おやじさんは、にやりと笑った。それから、私の手を取るようにして、奥から一枚の紙を持ってきた。村井係長が、さっき私に渡した「補助金受給団体の兼業許容」の資料だった。


「これ、会長が持ってきてくれるとは思わなかった。ありがとな」


私の手が、震えた。雨の音が、屋根を打っている。おやじさんは、私の傘を見て、さりげなく差し出した。


「村の未来を、俺に託してくれってことだろ。うちは三代続いた店だ。四代目は、娘の婿に譲るつもりだったけど、村のために、もう少し働かせてもらおうかと」


「でも、おやじさん。議員ってのは、簡単なもんじゃないぞ。高齢化で、村の財政だって苦しい。若手は、村を担えないって、文句ばかり言ってる」


私が言うと、おやじさんは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。


「若手だって、育てなきゃだめだろ。俺たちが、手本を見せてやんなきゃ。法の枠組みを守りながら、心のつながりを育てる……それが、俺たちの役目じゃないか」


店内に、しばらく沈黙が流れた。雨足が、少し弱くなった。窓の外では、商店街の人々が、傘を差して歩いている。


【夕方】


自治会事務所に戻ると、鈴木副会長が、待っていた。鈴木一郎、六十五歳。私と同じく、村の古い顔だ。


「会長、高齢者の声、聞いてきましたよ」


鈴木は、メモを広げながら、そう言った。夕方の光が、薄れていく。


「『若手は村を担えない』って、もう決めつけてるんです。自分たちの経験を、すべてだと思ってる。でも、それじゃあ、村は変わらない」


私は、おやじさんの言葉を思い出していた。法の枠組みを守りながら、心のつながりを育てる……。


「鈴木さん。俺たちは、制度を動かすこともできるかもしれない。でも、それよりも、村の人が笑顔で集まることが、大事なんじゃないか」


私が言うと、鈴木は、一瞬、黙った。それから、ゆっくりと頷いた。


「会長の言う通りかもしれん。でも、まだ、不安だ」


事務所の窓から、商店街が見える。雨は、すっかり上がっていた。梅の木に、夕日が差し込んでいる。


【夜】


自宅に戻ると、妻・節子が、縁側で茶を淹れていた。梅の香りが、夜風に乗って、漂ってくる。


「今日は、どうだった?」


節子が、そう尋ねた。私は、村井係長の話、おやじさんの決意、鈴木副会長の不安を、順に話した。


「制度より、村の人が笑顔で集まることが、大事なんじゃないかな」


節子が、そう言った。私は、縁側に腰を下ろしながら、空を見上げた。雲の切れ間から、星が覗いている。


「法の枠組みを守りながら、心のつながりを育てる……そうだな。それが、俺たちの役目かもしれん」


すると、どこからか、若い笑い声が聞こえてきた。村議選に出るという、おやじさんの娘婿だろうか。それとも、まだ見ぬ新しい議員だろうか。


梅の香りに混じって、若い議員の笑い声が聞こえてくるような気がした。私は、節子と、静かに茶をすすった。三月十六日、小雨の降る一日だった。

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