メロンソーダが甘すぎるから

吉野諦一

第1話 哀悼



「僕には未来が見えるんだ」


 師匠の言葉に私は顔を上げる。いつもの冗談かと思ったけれど、師匠の目はそうは言っていなかった。


 四面の出入口と窓以外を本棚に割いた簡素な執務室。目を刺激しすぎないように調整された薄明かりの部屋で、私と師匠は長方形の机を挟んで斜向かいに座っている。互いの表情は見えても息遣いは聞こえない絶妙なこの距離で、作業を始めてから今は三時間ほど経っている。


 私が黙っていると、師匠の優しげな眉が少し曲がった。


「信じてない顔だね」

「師匠の言うことですし」

「今回は本当だよ」


 師匠は肘掛けに腕を置き、リラックスした姿勢で目線を向けた。


 原稿作業に取り掛かっているとき、師匠は今思いついたばかりの冗談を言う癖があった。冗談と呼んではいるが、その筋立ては短編小説並みにしっかりしている。原稿を書きながらよくそんなものを思いつくものだと、内心では毎度その冗談を楽しみにしていた。


「未来といっても世界がどうなっているかとか、宝くじの当選番号とかは知ることができない。あるいは頑張ったら一部くらいは知れるかもしれないけど」

「曖昧な設定なんですね」

「融通が利かないよね……いや、設定ではないんだけど」


 誤魔化すように笑って、指先で黒縁の眼鏡をくいっと上げる。


「見える範囲は自分に関わるものだけ。だから他人への占いとかには使えないんだ。君の役に立てるような使い方もできない。ごめんね」

「期待していないので大丈夫です」


 少しでも残念がっておけば可愛げがあっただろうか。返事をしてからそんなことを思った。


 鉛筆から手を離し、原稿用紙を俯瞰する。自分の中から出力された文字列は、うねる水面のようにまとまりがなく、まだ宿っていない意味を求めてざわめいていた。


 また駄目だ。今すぐにでもくしゃくしゃにしてやりたくなる。師匠の手前、仕事道具を粗末にはできない。衝動を制御できないのは三流だ。


 原稿用紙から右手の側面に移った黒鉛が、徒労だといって笑っているように見えた。


「思い詰めても、良いものが出来上がるとは限らないよ」


 未来を知る師匠は神妙な顔で言った。


「苦しんだ分だけ素晴らしい文学が生まれると信じる人もいるけどね。実際にそういう例もたくさんある。だけど君がそういう文学を志すかどうかは、まだ決めていないだろう?」


 考えもしなかった問いかけに、私は返す言葉が思いつかなかった。


 まだまだ浅い。師匠から学ぶべきことは、百を超えてもなお足りない。


「どんな形でもいい。君の理想を見つけなさい。そしてその理想に近づくために、今できることを考えなさい。そのひとつひとつを積み重ねていけば、いつか必ず、望む未来に辿り着けるよ」


 師匠は確かに未来を見据えていた。温厚さの滲み出る眼で、私たちには明るい未来が待っているのだと示してくれていた。


 私の望む未来。夢を叶えること。


 師匠の言葉が、その願いの実現を保証してくれている――






 当時、十八歳の私はそう思っていた。


 でも、そうじゃなかった。


 師匠の言っていたことの真意を、七年後の私は知ることになる。






   ■ ■ ■ ■ ■






 パンプスの色が明るいことに気づいたのは、高速道路を降りてすぐのことだった。


 駐車場の広いショッピングモールを横切った後、履き替える選択もあったなと気づく。最低限のブラックフォーマルは着てきたのだから特に問題はないだろう。むしろ準備万端で参列するよりはましだった。


 緩やかなカーブを描く坂道を上り、開けた丘の駐車場に車を停める。山の向こうの空は灰色で、間もなくすれば雨雲がこちらへスライドしてくる予感がした。


 式場の前にいたスタッフに声をかけ、受付に案内してもらう。芳名帳に記帳したあと、まばらに集まっている参列者の間をまっすぐに抜ける。


 棺桶は、驚くほどに小さく見えた。


 焼香の列は空いていた。焼香台の前に立って、周りを見渡すも遺族らしい姿はない。ひとまず控えていた仏僧に頭を下げ、行きがけに覚えた手順通りに焼香をあげる。


 師匠――三沢先生。


 貴方は最後まで、一度も本音を明かしてはくれませんでしたね。


 私は貴方の言う通りにやってきました。貴方のもとへ弟子入りし、貴方の教えに従って小説を書いた。それが自分の夢を叶えるためだと信じていたから。


 でも、貴方が示した道はまったく別のものでした。


 その意味が、この先わかる日が来るのでしょうか?


 合わせた手を離し、祭壇の上に置かれた遺影を見る。生前から年齢不詳の気があった師匠の表情は、記憶の中と同じ温厚な笑みを湛えていた。


 祭壇の前から離れると、スタッフが声を掛けてきた。告別式は十四時でひとまず区切り、火葬場へ向かうバスが出るのでそれまでに駐車場に集まってほしいとのことだった。


 腕時計を見る。まだ出発まで時間がある。離席しているはずの遺族に挨拶をして、二言三言故人を偲ぶ会話をするくらいの余裕はあるだろうか。


 しかし、私にどんな話ができるだろう。故人の弟子でしたと率直に明かしても伝わるかどうかは怪しい。彼は生前、小説家を志したときに父親に勘当されたと言っていた。小説家となってからも所帯を持たず、生涯独身を貫いていた。とはいえ彼の懇意にしていた出版社ではなく、遺族の主導で葬儀が執り行われているのだから、絶縁状態は解除されているかもしれない。


 いっそ『三沢みさわ秋水しゅうすい』というペンネームを明かせば、参列者の規模は今の比ではなかっただろう。でも師匠はそれを望まなかった。ただそれだけのことだろう。


 案の定、喪主である故人の母親は彼が著名な小説家であることを知らないようだった。生前にも連絡自体は取っていたが、どんな仕事をしているかといった話は意図的に避けていたという。


 もし彼の正体を明かせば、この母親はどんな反応を示すだろうか。私に暴露する権利があるとは思わないが、今を逃せば彼への意趣返しの機会は二度と訪れないに違いなかった。


 明確な意志をもって故人の秘密を明かそうとしたとき。ふと、視線を感じた。


 喪主の肩越しに視線の主を捉える。中学生くらいの少女だ。黒いセーラー服と長い黒髪。遠目にもわかる白い肌と冷たい眼差し。携えた革製の鞄と、儚げな佇まいがちぐはぐな印象。


 まるで水彩画のように透きとおった少女が、私に視線を突きつけていた。


 喉まで出かかっていた言葉を呑み込み、やや強引に話を打ち切る。喪主の顔も見ず、軽く会釈して脇を通り抜ける。


 歩み寄ると、少女は一礼する。そして緊張した面持ちながら、気丈に口端を上げた。


みなと媛子ひめこさんですよね?」


 私の名前を知っている。それだけで少なくとも師匠の縁者だということがわかる。


 他の参列者を見る限り、出版関係の人間は私しかいない。ここにいるのは師匠とプライベートで関わりがあったか、あるいはかつての私のように――


「わたし、冴凪さえなぎれいといいます。三沢先生の養子です」

「養子?」


 初耳だ。だが驚きはない。


 そんな私の表情を見て、少女は不思議そうに眉尻を上げる。


「ご存じでしたか?」

「いいえ。でも師しょ……三沢先生ならありえると思って」


 血の繋がりのある隠し子だと言われたほうが余程驚いただろう。彼は生涯独身で、その代わりなのか児童福祉事業への募金を積極的におこなっていた。子どもの一人や二人、養子として保護していても不思議ではない。


「でも先生の本姓は冴凪ではなかったはずですが」

「すみません。疑ってますよね」

「疑っているわけでは」


 ただ戸惑っているだけだ。事実ならば受け入れるが、唐突に養子を名乗られては真偽を確かめるまで慎重にもなる。


 少女は革鞄を開き、厚みのある角封筒を取り出す。生前の師匠が使っていた、生原稿を入れるときの封筒だった。


 遺稿。その二文字が脳裏をよぎる。


「この原稿を読んでいただければ、疑問は解消できると思います」


 少女の表情は硬い。封筒を持つ手も小刻みに震えている。


 こういう様子の相手を、私は仕事上よく見てきて知っていた。


 受け取った封筒を紐解き、中身を覗く。およそ百枚程度のA4原稿。今どき珍しくはあるが、違和感と呼ぶほどではない。師匠は改稿の際には必ず紙の原稿に出力して見直す人だった。


「これは、先生の遺稿ですか?」


 意を決して尋ねる。少女は首を縦にも横にも振らなかった。読めばわかる、と言いたいのだろう。


 とはいえこの場ですべての頁に目を通すのは難しい。火葬場へ移動する時間も迫ってきている。故人を悼む場で、原稿を持ち歩くのも心証が悪い。


 それに、原稿を読む前に推測がつくこともある。先にそこを明らかにしておきたかった。


「この原稿は冴凪さんが書いたものですよね」


 少女の顔からなけなしの血色が引く。


「ど、どうしてわかったんですか」

「私のことを知っていて、師匠のことを養父ではなく三沢先生と呼んでいたからです」


 冴凪という姓も、本姓よりは筆名だろうと直感していた。原稿を読めばわかるという頑なな姿勢は、三沢先生の養子ではなく一人の書き手としての矜持から来るものだろう。


 だからこそ解せない。師匠の葬儀の場で、よりにもよって私に自前の原稿を渡すなんて。


「三沢先生の名前を利用して私に原稿を読んでもらおうとしたんですか」


 敬語口調で話せているのが不思議なくらいだ。ここに来てから静かに積もっていた憤懣が、今になって沸きあがろうとしている。


 この際彼女が養子であるかどうかなんて関係ない。その真偽を知るよりも先に、私に突きつけた原稿の価値を否定してやりたくなった。


「一応聞いておきますが、私が出版社の編集者だと知っていてこの原稿を渡したんですよね?」


 少女は頷く。多少の覚悟はしているようだ。


 意図せず溜め息が漏れる。少女の蛮勇に呆れたからではない。不躾を承知で師匠に突撃した、かつての自分と重ねてしまったからだ。


 夢を追いながら、夢を叶えられなかった自分と。


 師匠はどういうつもりで、私とこの少女を引き合わせたのだろう?


「……初めの数頁だけ、拝読します。もし続きを読むに足らないものであれば、この原稿はこの場でお返しします。それでいいですか」

「構いません」


 たいした自信だ。普通の持ち込み原稿でも最後までは読み通すものなのに。


 せめて出会い方が違っていれば、先入観なく読めただろう。あるいは歳の割に礼儀正しい少女に対して肩入れするような読み方もしていたかもしれない。


 だが、ここで会ったが運の尽きだ。


 私は大人げない偏見を持ったまま、仮止めされた原稿用紙の隅をめくった。


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