召喚に絶望した俺は自由を求めて、勇者を首になることに決めた

もりし

第1話 世界が崩れた日、花音との決別*

 秋の夕暮れの光は、妙に濁っていた。靴紐が切れる。猫やカラスがこちらを睨みつけるように鳴き声を上げ、道を歩けば、よりによって犬の糞を踏んづける。


「なんなんだってんだ、一体……これから花音かのんに会うっていうのに」


 俺、篠山湊しのやまみなとは一人ぶつくさと文句を呟くが、胸の内がざわざわとしていたのは間違いない。ここしばらく、仕事が忙しいという建前で(実際には彼女のためと信じて)時間が取れなかった。それ以上に、避けられているような冷たい隔たりを感じていたのは事実だ。


「まさかな……」


 俺は頭を振って、花音との待ち合わせ場所、喫茶ヒナモリへ向かった。


みなと。別れよう」


 悪い予感というのはどうしてこうも的中するのか。しかも最悪の予感が的中してしまう。

 ​喫茶店の窓際の席。外は、全てを曖昧に溶かすような夕暮れ時だ。その中で、花音の言葉だけが、やけに輪郭を伴って俺の鼓膜に突き刺さる。心臓が一度、大きく誤作動を起こしたみたいに、ドクンと波打った。


 ​「……なんで?」


 ​自分の声が、こんなにも情けないほど震えるなんて知らなかった。花音は相変わらず整った顔立ちで、悲劇のヒロインを演じるように困った笑みを浮かべている。しかし、その瞳は、俺からとっくに離れ、遠い、もっと豊かな未来を見つめているようだった。


 ​「なんでって……湊。私たち、なんかもう、合わなくなっちゃったじゃない」


 ​花音は、グラスの中でカランと音を立てる氷を、指先で弄んだ。その仕草一つ一つが、もう俺のものではない、他人のものだと訴えかけてくる。


 ​「それにね、私、もっとこう、ちゃんと私を引っ張ってくれる人が欲しくなっちゃったの」


 ​その「ちゃんと」の意味が、俺にはすぐに理解できた。なぜなら、花音の隣に、その「ちゃんとした人」が座っていたからだ。


「どうも……」


 と気まずそうに答える男。名前を田邊大和たなべやまとといった。

 ​スーツをスマートに着こなした、自信に満ちた笑み。大和は俺とは真逆の人間だった。目標を掲げ、それを実現する力を持つ、社会的な「強者」。大学生である花音が、バイト先で知り合った男だという。大和は花音のバイト先である小さな運送会社の社長の息子だ。日に焼けて浅黒く、首元には太いプラチナのネックレスが下品にじゃらりと音を立てる。

 ​花音がこいつを選んだ。俺という「弱者」から離れ、この男に縋ろうとしている。その事実は、俺が今まで築いてきた、取るに足らないと思っていた「俺」という存在を、根底から粉々に打ち砕く。

 ​花音ははぁ、とため息をついた。


 「湊は優しすぎるんだよ。誰に対しても、優しすぎて。この間だって、道に迷ったおばあちゃんを助けて待ち合わせに遅れてきたでしょう? 立派だとは思うけど、お巡りさんに預けるとか、機転を利かせればよかったじゃない。わざわざ道案内までして。そういうところ、私にとっては勝手な自己満足に見えるの。仕事だって人に押し付けられて、NOっていえないじゃん」


 ​自己満足。

 ​俺が、誰かを、何かを助けたいと無意識に思っていたその行動は、花音にとって、ただの迷惑な優しさでしかなかった。俺の存在価値を、花音は明確に否定したのだ。俺の優しさは、彼女が求める「強さ」ではなかった。むしろ、彼女を満足させられない「欠陥」だと断罪された。

 

​「俺は……ただ……」


 ​弁解の言葉が見つからない。俺の存在のすべてが、今、否定された。

 

​(そうか。俺の優しさは、誰かを傷つける。俺が、誰かの期待に応えようとすれば、それは結局、誰かを苛つかせる原因になる)


 ​「私たちの関係って、ずっと湊の優しさに私が甘えてるだけで、対等じゃなかった。大和といると、私、満たされるの。ちゃんと、私が彼の隣にいる価値があるって思えるから」


 ​俺の心の中で、花音への愛情だけじゃない、「他人と関わること」への全ての希望が、プツリと切れた。


「そういうわけなんで、なんていうか俺なりのケジメっていうか」


 俺はそういう大和をジロリと睨む。堂々と俺の目線を受ける大和は、悪びれてもいない。良い女を奪って何が悪い。奪われるお前が悪いと言ってもいるようだった。

 店内では高校生の男女グループが楽しそうにおしゃべりしているのが目についた。俺にはそれがいたたまれなくなった。高校の同級生である俺と花音。あの頃からの付き合いであった。あの頃は良かったな、などと一瞬、思い出がよみがえる。


 ​「わかったよ、花音」


 ようやく、​それだけ言って、俺は席を立った。

 俺達は喫茶をあとにする。


「じゃ、そういうことで」


「湊、元気で」


 ​夕暮れの街を喫茶ヒナモリの扉の前で立ち尽くす。俺は心に固い壁を築き上げた。


​(もう、いい。誰とも関わるな。誰にも期

待するな。誰も助けようとするな)


 ​他者への関わりを断てば、もう、自分の優しさが誰かを傷つけることもない。誰かの期待を裏切って、「役立たず」だと断罪されることもない。

 ​孤独。それは俺にとって、傷つかないための、唯一の絶対的な防衛策となるだろう。


​「もう……どうでもいい。全て」


 カランと音をたてて、扉が開く。ちょうど先程の高校グループも喫茶店を出てきたところである。そのグループに道を譲るように後ずさるその瞬間だった。

 ​頭上に、灼熱の太陽みたいな光が、突然降り注いだ。視界が真っ白になり、光に包まれた俺の意識は、有無を言わさず遠ざかっていった。俺は、世界からの期待を最も拒絶した瞬間に、世界を救う「勇者」の一員として、花音、大和、そして高校生の男女グループと共に、別の世界へと引きずり込まれたのだ。

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