第2話:沈黙と検索履歴
放課後の教室には、まだ昨日の蛍光ペンの残骸と、文化祭の活気が微かに残っていた。
相沢雫は自分の席でぼんやりとスマホを見つめていた。検索履歴には「LUMINA ユウ メンバーカラー」「ユウ プライベート 目撃」といった、ありきたりなワードが並んでいる。昨夜からずっと調べているが、アイドルとして完璧にプロデュースされているユウの素につながる情報は、当然見つからない。
だが、雫の心の中には、昨日見た光景が貼り付いて離れなかった。
(あの時のユウくん……。全然笑ってなかった)
普段、SNSやライブで見るユウの笑顔は、彼女にとって太陽だった。光に満ち、希望をくれる。しかし、昨日、画用紙の裏でこっそり見たストーリーの笑顔も、そして、その前にふと目撃してしまった公園のベンチに座る私服の横顔も、どこか影を落としていた。
完璧な笑顔の裏にある、誰にも見せてはいけない孤独。
雫は、その完璧ではないユウこそが、自分と同じ、生身の人間だと強く感じた。学校で誰でもない自分を演じている雫にとって、完璧なユウの裏側にある人間的な悩みは、異常なほど魅力的に映った。自分だけがその秘密を知っている、という優越感と、自分が助けてあげられるかもしれないという、危険な使命感が湧き上がっていた。
「雫、ごめんね、待った?」
佐倉葵が、パンと飲み物を持ったビニール袋を提げて現れた。
「大丈夫。今来たところ」
雫は慌てて画面を消し、スマホをポケットに滑り込ませた。
「あのね、明日、模擬店の配置決めがあるんだけど、実行委員だけで行かなきゃいけなくて。ごめん、明日もポスター手伝ってほしかったんだけど、無理そうなんだ」
葵は申し訳なさそうに言った。
「そっか。全然気にしないで。模擬店の配置なんて大事だもん」
「ありがとう!助かる。じゃあ、明日の放課後、雫はゆっくり休んでね」
葵はそう言って、雫にクリームパンを一つ差し出した。
「これ、今日限定の新作なんだって。美味しいよ!」
「ありがとう」
雫はクリームパンを受け取った。葵の優しさは、いつも温かい。しかし、その優しさが時折、雫の心を締め付ける。葵は、雫が推し活で忙しいという言葉を、純粋に趣味に熱中していることだと信じ込んでいる。葵には、雫が推し活の「いいね」の数で自分の価値を測っていること、学校での自分に全く自信を持てないことを、決して言えない。
(葵はいいな。現実(リアル)の世界だけで、ちゃんと生きられている)
葵は、クラスの人気者であるにも関わらず、他人を羨むことなく、自分の役割を全うしている。雫は、そんな葵に嫉妬していた。そして、ユウと同じように、葵の前で「頑張っている自分」という仮面を被っていることに疲れていた。
「ねえ、雫」
葵が急に真面目な顔になった。
「あのね、最近、雫が元気ない気がして。さっきも上の空だったし」
「え、そんなことないよ」雫は咄嗟に否定する。
「ううん。なんか、スマホ見てる時の顔と、私と話してる時の顔が、違うんだ。どっちが本当の雫なのか、私には分からないけど……無理してるなら、ちゃんと話してね」
葵の言葉は、雫の最も触れられたくない核心を突いた。雫の瞳が揺れる。葵は何も知らないのに、どうしてこんなにも鋭いんだろう。
「そんな大したことじゃないよ。推し活のアカウントでちょっとフォロワーと喧嘩しただけ」
咄嗟に出た嘘は、ひどく現実味がないものだった。葵は何も言わず、しばらく雫の顔を見ていたが、やがて諦めたように微笑んだ。
「そっか。まあ、喧嘩しても、私たちはずっと友達だから。分かんないことあったら、私を頼ってね」
葵の温かい言葉に、雫の胸がチクリと痛んだ。自分は今、大切な友達に嘘をついている。ユウとの「秘密」を守るため、現実の関係性を雑に扱っている。
しかし、その夜。雫の意識は、再びユウの「闇」へと引きずり込まれることになる。
家に帰り、いつものように推し活アカウント【@lumina_shizuku】を開いた。ユウが深夜に、誰も見ていないだろう時間帯に、ストーリーズを更新していたのだ。
それは、ユウの部屋の窓から見える、夜景の写真だった。ただの夜景だが、その写真に添えられたテキストが、雫の心臓を鷲掴みにした。
――ユウのストーリーズ――
もう疲れたよ。どこにも居場所がない。誰か助けて。そして、このメッセージは、公開後わずか5分で削除されていた。
「え……」
雫は息を飲んだ。慌ててブラウザを操作し、LUMINAのファンの間で使われている情報共有掲示板をチェックするが、誰もこのストーリーズについて言及していない。どうやら、雫がたまたま見て、スクショを撮ることに成功した、ごく短時間だけ公開された幻の投稿だったようだ。雫の手に、力がこもる。
(私だけが、見た。私だけが、気づいたんだ)
あの公園で見た疲れた横顔。そして、この消されたSOS。これは偶然ではない。ユウは、ファンの中の誰か一人に、自分の孤独を気づいてほしかったのではないだろうか? そして、それが、熱心なファンである自分、相沢雫だったのではないか?雫の心の中で、危険な使命感が確信へと変わっていく。
(私が、ユウくんを助けなきゃ。ユウくんが本当に必要としているのは、完璧なアイドルを褒め称えるファンじゃなくて、ユウくんという一人の人間を理解してくれる誰かなんだ)
雫はすぐにユウのDMにメッセージを送ろうとキーボードを叩き始めた。
――DM――
ユウくん。見ました。無理しなくていいよ。私は、あなたの味方です$$しかし、指が止まる。もし、これが他のファンに知られたら? ユウに迷惑をかけて、彼の居場所を奪うことになったら?パパラッチや週刊誌に利用されたら? 雫は、自分の軽率な行動が、ユウをさらに追い詰める可能性があることに気づき、メッセージを削除した。代わりに、雫は再びスマホで検索を始めた。
「ユウ ストーリーズ 削除 理由」「LUMINA ユウ 不仲説」――。
その時、一つ、奇妙な投稿を見つけた。それは、LUMINAのメンバーたちが集合した楽屋でのオフショット写真。皆が笑顔の中、ユウだけが少しだけ表情が硬いように見える。しかし、その写真の隅、鏡に映り込んだユウの背後で、彼の服のポケットから、見慣れないものが少しだけ覗いていた。
それは、雫が通う高校の校章のような、濃い青の小さなアクセサリーだった。
「これ……うちの高校の、購買で売ってるやつ?」雫の指が震えた。
ユウは、この街にいる。そして、もしかしたら、この学校と何らかの繋がりがあるのかもしれない。雫は、推しとの境界線が、物理的に、そして精神的に、予想もしないほど近いところにあったという事実に、息をすることも忘れてしまうのだった。
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