おあがんな
青月 日日
おあがんな
「おあがんな」。
この言葉の意味を、今どれくらいの人が知っているだろう。
子どものころ、地元の年寄りがあいさつ代わりに使っていた。
けれど、当時の私は何を言われているのか分からなかった。
ただ、声の響きがやさしく、心の奥に残った。
後になって知ったのは、「おあがんな」は「召し上がれ」の方言だということ。
でも、その背景には、もっと深い意味があるらしい。
江戸時代の飢饉までさかのぼるそうだ。
食べ物が乏しい時代、人は相手に「食べ物は足りていますか」と言うことにためらった。
しかし、なかなか言えないのだ――
「実は食べるものがないんです」とは。
だからこそ、「おあがんな」は
相手を気づかいながら、そっと心を開かせるための言葉だった。
「おあがんなさいましたがえ?」
午後になると、そんなふうに声をかける。
「お昼は食べたかい?」という意味だ。
やがて、この言葉は挨拶にもなった。
朝に会えば「おあがんな」、昼でも「おあがんな」。
「おはよう」「こんにちは」と同じように交わす言葉。
でも、それは単なる挨拶ではなかった。
「おあがんな」は、相手の暮らしに目を向ける言葉だった。
相手が元気か、食べているか、困っていないか。
そのすべてを、たった一言で包み込む。
誰かの小さな異変を見逃さないための、
生活の中に根づいた“やさしい挨拶”だったのだと思う。
いまの日本語には、そういう言葉がどれだけ残っているだろう。
「おつかれさまです」「すみません」「失礼します」。
どれも便利で無難だけれど、
心の向きが見えにくい。
誰かを思いやるというより、
自分を守るための言葉になってしまった気がする。
昔の日本語には、“間”があった。
「おあがんな」には、相手の答えを待つ静けさがある。
すぐに返事を求めず、
相手の中に踏み込みすぎず、
でも、ちゃんと見ている。
そういう距離感の中に、人の優しさが息づいていた。
思えば、日本語とは本来、
「伝える」よりも「寄り添う」ための言葉だったのかもしれない。
意味よりも、響きと間で通じ合う。
そこに、方言や古い言葉の温度が生きている。
もし、今また誰かが「おあがんな」と言ってくれたら、
私はきっと泣いてしまうだろう。
その一言に、
人の暮らしと、気づかいと、
言葉がまだ“生きていた”時代のぬくもりが詰まっているから。
今日も元気で。
おあがんな。
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