第9話「呪文が効かない客」
森田正義は、古い写真を見つめていた。
十年前の写真。
息子の大輔が、大学の卒業式で笑っている。
隣には、正義と妻の悦子。
三人で、幸せそうに写っている。
でも、今はもう、こんな時間は戻ってこない。
正義は、写真を引き出しにしまった。
そして、ため息をついた。
十年。
息子と会っていない。
話もしていない。
全ては、あの日から。
十年前。
大輔が大学を卒業して、就職が決まった日。
大輔は、家族の前で言った。
「俺、東京の会社に就職する」
正義は、眉をひそめた。
「東京? 何を言ってるんだ。お前、地元の教員採用試験に合格したじゃないか」
「うん。でも、俺、教師になりたくない」
「何?」
「俺、自分の道を歩きたい。父さんみたいに、教師になるんじゃなくて」
正義は、カッとなった。
「何を言ってるんだ! お前は、森田家の長男だぞ! 俺も、じいちゃんも、教師だった! お前が継ぐべきだろ!」
「でも、俺は――」
「でもじゃない! お前のために、どれだけ金をかけたと思ってるんだ! 大学の学費、全部俺が出したんだぞ!」
「……分かってる。でも、俺の人生は、俺が決める」
「生意気なことを言うな!」正義は、テーブルを叩いた。「お前が、俺の言うことを聞かないなら、もう親子の縁を切る!」
大輔は、黙っていた。
そして、静かに言った。
「……分かった。じゃあ、縁を切ろう」
正義は、息を呑んだ。
「何だと……?」
「父さんの言う通りにするのは、もう嫌だ。俺は、東京に行く」
大輔は、立ち上がった。
そして、家を出た。
それから、十年。
大輔は、一度も帰ってこなかった。
電話も、メールも、全て無視。
正義も、連絡しなかった。
意地だった。
息子が謝ってくるまで、絶対に許さない。
でも、十年経っても、大輔は謝ってこなかった。
そして、今年。
妻の悦子が、病に倒れた。
重い病気だった。
医者は言った。
「余命は、半年ほどです」
正義は、愕然とした。
悦子は、ベッドの上で、か細い声で言った。
「正義さん……大輔に、会いたい……」
「……」
「お願い……最後に、会わせて……」
正義は、何も言えなかった。
でも、意地を張り続けることはできなかった。
正義は、重い腰を上げた。
大輔の連絡先を調べた。
そして、メールを送った。
「母さんが、病気だ。会いに来てくれ」
しかし、返信はなかった。
正義は、電話もかけた。
でも、大輔は出なかった。
正義は、怒りと悲しみで、胸がいっぱいになった。
あいつは、母親が死にかけてるのに、それでも来ないのか。
正義は、拳を握りしめた。
ある日、正義は月島を訪れた。
妻の見舞いの帰りに、偶然通りかかった商店街。
そこで、古い看板を見つけた。
「呪文屋 Vrăjitorie」
呪文屋?
正義は、少し考えた。
そして、階段を上った。
藁にもすがる思いだった。
部屋の中は、静かだった。
本棚、丸テーブル、蝋燭。そして、黒いワンピースを着た若い女性。
「いらっしゃい」
女性の声は、低く、静かだった。
正義は、椅子に座った。
「私はエレナ。あなたは?」
「森田、正義です」
「森田さん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」
正義は、少し躊躇した。
こんな若い娘に、何が分かるのか。
でも、他に頼る場所がなかった。
「……息子と、会いたいんです」正義は言った。「十年間、会っていない。妻が病気で、最後に会いたいと言ってるのに……息子は、来ない」
エレナは、黙って聞いていた。
「息子に、連絡したんです。でも、返事がない。電話も、出ない」正義の声が、震えた。「あいつは、母親が死にかけてるのに、それでも来ないんです」
エレナは、静かに頷いた。
「分かったわ」彼女は言った。「あなたには、『和解の呪文』が必要ね」
「……本当に、効くんですか?」
「それは、あなた次第」エレナは、本棚からノートを取り出した。「でも、呪文は、あなたの背中を押すことはできる」
エレナは、ペンを取り出して、ノートに何かを書き始めた。
「でもね、森田さん」エレナは、書きながら言った。「呪文には、必ず『代償』が必要」
「代償……それは?」
「あなたの『意地』を、手放すこと」
正義は、眉をひそめた。
「意地……?」
「そう」エレナは、ペンを止めて、正義を見た。「あなたは、息子を許していない。息子が謝ってくるまで、許さないと思っている」
正義は、何も言えなかった。
「でも、それじゃ和解はできない」エレナは、続けた。「まず、あなたが意地を捨てて、息子に歩み寄らないと」
正義は、ムッとした。
「なんで、俺が? 悪いのは、息子だ。俺の言うことを聞かなかったのは、あいつだ」
エレナは、静かに言った。
「本当に、そうですか?」
「当たり前だ! 俺は、息子のために言ったんだ! 教師になれば、安定した生活ができる! それなのに、あいつは勝手なことを……」
「森田さん」エレナは、正義の言葉を遮った。「あなたは、息子のために言ったのか、それとも自分のために言ったのか」
正義は、言葉に詰まった。
「何を……」
「あなたは、息子に自分の道を歩ませたくなかった。森田家の伝統を守らせたかった。それは、息子のためじゃなく、あなたのため」
正義は、怒りが湧いてきた。
「……あんた、何も知らないくせに」
「知らないかもしれない」エレナは、静かに言った。「でも、あなたが意地を張り続ける限り、息子とは和解できない」
正義は、立ち上がった。
「……もういい」
正義は、店を出ようとした。
でも、エレナが言った。
「森田さん。呪文は、ここに置いておくわ。必要なら、いつでも取りに来て」
正義は、振り返らずに、ドアを開けた。
そして、階段を降りた。
家に帰ると、正義は妻の病室に向かった。
悦子は、ベッドで眠っていた。
顔色は、日に日に悪くなっている。
正義は、椅子に座った。
そして、悦子の手を握った。
「……悦子」
悦子は、目を開けた。
「あら……正義さん……」
「大輔に、連絡したよ」
「……そう……返事は……?」
正義は、黙った。
悦子は、悲しそうに微笑んだ。
「……まだ、なのね……」
「ああ……」
「正義さん……お願い……」悦子は、か細い声で言った。「大輔を……許してあげて……」
正義は、顔を背けた。
「……あいつが、謝るべきだ」
「でも……もう、時間がないの……」悦子の目から、涙が溢れた。「私……大輔に会いたい……最後に……」
正義は、拳を握りしめた。
でも、何も言えなかった。
その夜、正義は一人で酒を飲んでいた。
エレナの言葉が、頭の中で繰り返される。
「あなたが意地を張り続ける限り、息子とは和解できない」
正義は、グラスを置いた。
そして、思った。
本当に、俺が悪いのか?
俺は、息子のために言ったんだ。
教師は、立派な職業だ。
なのに、なんで俺が謝らなきゃいけないんだ。
正義は、頭を抱えた。
数週間後。
正義は、再び呪文屋を訪れた。
エレナは、同じ場所に座っていた。
「森田さん」エレナは言った。「おかえりなさい」
正義は、椅子に座った。
そして、怒った声で言った。
「呪文を、もらいに来た。あんたが言ってた、和解の呪文を」
エレナは、本棚からノートを取り出した。
そして、前に書いた呪文のページを破り、正義に手渡した。
「Iertarea mea(私の許しよ)、橋を架けろ
意地を捨て、心を開け
愛は残る、時は待たない」
正義は、その紙を受け取った。
「これを、唱えればいいんだな」
「そう。毎晩、三回」エレナは言った。「そして、息子に連絡して。あなたから、歩み寄って」
正義は、紙を握りしめた。
「……分かった」
正義は、店を出た。
しかし、正義は呪文を唱えなかった。
紙を見るたびに、エレナの言葉が蘇る。
「まず、あなたが意地を捨てて、息子に歩み寄らないと」
なんで、俺が。
悪いのは、息子だ。
正義は、紙を引き出しにしまった。
そして、さらに二週間後。
正義は、再び呪文屋を訪れた。
今度は、怒りに満ちた顔で。
「呪文が、効かない!」正義は、エレナに向かって言った。
エレナは、静かに正義を見た。
「効かない?」
「ああ! 二週間も持ってたのに、息子から何の連絡もない! 呪文なんて、嘘っぱちだ!」
エレナは、少し間を置いて、聞いた。
「森田さん。呪文を、唱えましたか?」
正義は、一瞬黙った。
「……それは……」
「唱えていないのね」
正義は、何も言えなかった。
エレナは、静かに言った。
「呪文は、信じる者にしか効きません」
「……何?」
「あなたは、呪文を信じていない。いえ、それ以前に、あなたは本当に息子と和解したいと思っていない」
正義は、目を見開いた。
「何を言ってるんだ! 俺は、息子と和解したいから、ここに来たんだ!」
「本当に?」エレナは、正義の目を見た。「あなたは、息子が謝ってくることを望んでいる。でも、和解を望んでいるわけじゃない」
正義は、言葉に詰まった。
「それは……」
「あなたは、息子を許していない。許すつもりもない」エレナは、続けた。「あなたが望んでいるのは、息子が頭を下げて、『父さんが正しかった』と認めること」
正義は、拳を握りしめた。
「……違う」
「違いますか?」
正義は、何も言えなかった。
エレナは、深く息をついた。
「森田さん。呪文は、魔法じゃない。呪文は、あなたの心を変えることはできない」
「……」
「あなた自身が、本当に和解を望まない限り、どんな呪文も効かない」
正義は、椅子にもたれた。
そして、小さく言った。
「……じゃあ、どうすればいいんだ」
「それは、あなたが決めること」エレナは言った。「でも、一つだけ言えるのは、時間は待ってくれない」
正義は、顔を上げた。
「奥さんの命は、長くない。もし、本当に息子に会わせたいなら、あなたが動かないと」
正義は、唇を噛んだ。
「……でも、俺が謝るのは、おかしい。悪いのは、息子だ」
「本当に、そうですか?」エレナは、静かに聞いた。「あなたは、息子の人生を決めようとした。息子の夢を否定した。それは、正しかったですか?」
正義は、何も言えなかった。
エレナは、立ち上がった。
「森田さん。あなたが本当に息子と和解したいなら、まず自分の心と向き合って。自分が本当に何を望んでいるのか」
正義は、うつむいた。
そして、小さく言った。
「……俺は、どうすればいいんだ」
エレナは、優しく言った。
「それは、私には分からない。でも、答えは、あなたの心の中にある」
正義は、何も言えなかった。
そして、立ち上がった。
「……ありがとう」
正義は、店を出た。
正義は、月島の商店街を歩いた。
頭の中は、混乱していた。
エレナの言葉が、何度も繰り返される。
「あなたは、本当に息子と和解したいと思っていない」
本当に、そうなのか?
俺は、息子と和解したい。
でも……
正義は、立ち止まった。
そして、気づいた。
俺は、息子が謝ってくることを待っていた。
息子が、「父さんが正しかった」と認めることを。
でも、それは和解じゃない。
それは、ただの服従だ。
正義は、深く息をついた。
そして、思った。
本当に、俺が正しかったのか?
息子に、教師になれと強制したこと。
息子の夢を、否定したこと。
それは、本当に息子のためだったのか?
正義は、ベンチに座った。
そして、顔を覆った。
分からない。
もう、何が正しいのか、分からない。
その夜、正義は妻の病室にいた。
悦子は、眠っていた。
息が、か細い。
正義は、悦子の手を握った。
「……悦子。俺は、どうすればいいんだ」
悦子は、目を開けなかった。
正義は、涙が溢れそうになった。
「俺は……間違ってたのか? 大輔に、教師になれと言ったこと……」
沈黙。
正義は、小さく呟いた。
「……俺は、大輔に謝るべきなのか」
でも、答えは返ってこなかった。
翌日、正義は家で一人、考えていた。
そして、スマホを手に取った。
大輔の番号。
十年間、かけなかった番号。
正義は、深呼吸をした。
そして、通話ボタンを押そうとした。
でも、指が震えて、押せなかった。
正義は、スマホを置いた。
まだ、できない。
まだ、準備ができていない。
正義は、窓の外を見た。
冬の空は、どんよりと曇っていた。
その夜、エレナは一人、窓の外を眺めていた。
月が、雲の間から顔を出している。
彼女は、ルーマニア語で、小さく呟いた。
「Uneori, oamenii nu sunt gata să se schimbe(時々、人は変わる準備ができていない)」
エレナは、森田のことを思った。
彼は、まだ自分と向き合えていない。
息子を許せていない。
いや、自分自身を許せていない。
でも、それでいい。
人は、すぐには変われない。
時間が必要だ。
エレナは、蝋燭を見つめた。
炎が、ゆらりと揺れる。
彼女は、思った。
呪文は、万能じゃない。
呪文は、信じる者にしか効かない。
そして、信じるためには、心の準備が必要だ。
森田は、まだその準備ができていない。
でも、いつか、できるかもしれない。
エレナは、小さく呟いた。
「Timpul va spune(時が教えてくれる)」
そして、蝋燭を吹き消した。
部屋は、闇に包まれた。
でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。
数日後。
正義は、病院からの電話を受けた。
妻の容態が、急変したという。
正義は、急いで病院に向かった。
そして、病室に入ると、悦子はベッドで苦しそうに息をしていた。
「悦子!」
医者が、言った。
「森田さん、奥さんは……もう、長くないです」
正義は、悦子の手を握った。
「悦子……しっかりしろ……」
悦子は、か細い声で言った。
「……正義さん……大輔……」
「……」
「大輔に……会いたい……」
正義は、涙が溢れた。
「……ごめん、悦子。俺が……俺が意地を張ったから……」
悦子は、微笑んだ。
「……いいの……」
そして、静かに目を閉じた。
正義は、悦子の名前を呼んだ。
でも、返事はなかった。
数週間後、正義は一人で妻の墓の前にいた。
冬の冷たい風が、吹いている。
正義は、墓石を見つめた。
そして、小さく呟いた。
「……ごめんな、悦子。結局、大輔に会わせてあげられなかった」
沈黙。
正義は、ポケットから紙を取り出した。
エレナからもらった、呪文の紙。
「Iertarea mea(私の許しよ)、橋を架けろ
意地を捨て、心を開け
愛は残る、時は待たない」
正義は、その言葉を読んだ。
時は、待たない。
本当に、そうだった。
正義は、紙を握りしめた。
そして、決心した。
もう、意地を張るのは、やめよう。
大輔に、謝ろう。
遅すぎるかもしれない。
でも、やらないよりは、いい。
正義は、墓に手を合わせた。
「……悦子。俺、大輔に謝るよ。ちゃんと、謝る」
風が、静かに吹いた。
正義は、墓を後にした。
でも、その足は、まだ重かった。
本当に、できるだろうか。
本当に、大輔は許してくれるだろうか。
正義には、まだ分からなかった。
でも、一歩ずつ、前に進むしかなかった。
―― 第9話 了 ――
次回、第10話「黒い森の記憶」に続く
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