第8話「眠れない夜」
午前三時。
中村麻美は、ベッドの上で目を開けていた。
天井を見つめながら、時計の音だけが聞こえる。
カチカチ、カチカチ。
眠れない。
また、今夜も。
麻美は、ため息をついて、ベッドから起き上がった。
キッチンに行き、水を一杯飲む。
冷たい水が、喉を通る。
でも、心は冷えたままだった。
麻美は、カレンダーを見た。
十一月十五日。
三ヶ月前から、まともに眠れていない。
最初は、仕事のストレスだと思った。
看護師の仕事は、ハードだ。
夜勤、残業、患者の死。
心が休まる暇がない。
でも、それだけじゃなかった。
最近、何をしても眠れない。
ベッドに入っても、目が冴える。
羊を数えても、無駄だった。
麻美は、ソファに座った。
そして、スマホを取り出した。
午前三時十五分。
あと三時間で、また仕事だ。
麻美は、目を閉じた。
でも、頭の中は、忙しく動いている。
明日の仕事のこと、患者のこと、ミスをしないか、遅刻しないか。
考えることが、止まらない。
麻美は、目を開けた。
そして、小さく呟いた。
「……疲れた」
その日の朝、麻美は病院に出勤した。
目の下には、濃いクマ。
顔色も悪い。
でも、化粧で隠した。
誰にも、気づかれないように。
「おはよう、麻美さん」
同僚の看護師、由紀が声をかけてきた。
「おはよう」
「今日も夜勤?」
「うん」
「大丈夫? なんか、顔色悪いよ」
「大丈夫」麻美は、笑顔を作った。「ちょっと寝不足なだけ」
「無理しないでね」
「ありがとう」
麻美は、ナースステーションに向かった。
そして、今日のスケジュールを確認した。
患者の巡回、点滴の交換、薬の投与。
やることは、山ほどある。
麻美は、深呼吸をした。
大丈夫。
いつも通りにやれば、大丈夫。
でも、頭の中は、ぼんやりしていた。
午後、麻美は患者の部屋で点滴を交換していた。
手が、少し震えている。
疲れているせいだ。
麻美は、慎重に針を刺した。
でも、少しずれた。
「あ、痛い!」患者が声を上げた。
「ごめんなさい!」麻美は、慌てた。
もう一度、針を刺す。
今度は、成功した。
「すみません……」麻美は、小さく言った。
患者は、優しく言った。
「大丈夫ですよ。誰にでもあることです」
麻美は、深く頭を下げた。
そして、部屋を出た。
廊下で、麻美は壁に寄りかかった。
手が、震えている。
息が、苦しい。
麻美は、目を閉じた。
大丈夫。
落ち着いて。
でも、心臓が早鐘のように打っている。
「麻美さん、大丈夫?」
由紀が、心配そうに声をかけてきた。
「……大丈夫」麻美は、笑顔を作った。「ちょっと、疲れてるだけ」
「無理しないで。休憩取りなよ」
「うん、ありがとう」
麻美は、休憩室に向かった。
そして、椅子に座った。
頭が、痛い。
目が、重い。
でも、眠れない。
麻美は、スマホを取り出した。
そして、検索した。「不眠症 治す方法」。
たくさんの記事が出てくる。
リラックス、運動、規則正しい生活。
全部、試した。
でも、効かなかった。
麻美は、スマホを置いた。
そして、天井を見上げた。
もう、限界かもしれない。
その日の夜、麻美は仕事を終えて、月島の商店街を歩いていた。
なぜか、帰りたくなかった。
家に帰っても、また眠れない夜が待っている。
麻美は、当てもなく歩いた。
そして、古い路地に入った。
静かで、人通りが少ない。
麻美は、雑居ビルの前で足を止めた。
二階への階段に、古びた看板。
「呪文屋 Vrăjitorie」
麻美は、その看板を見つめた。
呪文屋?
なんだろう、これ。
でも、なぜか気になった。
麻美は、階段を上った。
部屋の中は、静かだった。
本棚、丸テーブル、蝋燭。そして、黒いワンピースを着た女性。
「いらっしゃい」
女性の声は、低く、優しかった。
麻美は、椅子に座った。
「私はエレナ」女性は言った。「あなたは?」
「中村、麻美です」
「麻美さん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」
麻美は、少し躊躇した。
でも、言葉が溢れ出た。
「……眠れないんです」麻美は、小さく言った。「三ヶ月前から、まともに眠れなくて……」
エレナは、黙って聞いていた。
「仕事が、忙しくて。ストレスも多くて」麻美は、続けた。「最初は、それが原因だと思ってたんですけど……今は、何をしても眠れない」
エレナは、静かに頷いた。
「疲れてるのに、眠れない。ベッドに入っても、頭が働き続けて」麻美の声が、震えた。「このままじゃ、倒れるかもしれない……」
エレナは、麻美の目を見た。
「麻美さん」エレナは、静かに言った。「あなたは、誰かに助けを求めたことがある?」
麻美は、一瞬黙った。
「……ないです」
「どうして?」
「……自分で、何とかしなきゃいけないから」麻美は言った。「看護師なんだから。人を助ける側なんだから」
エレナは、深く息をついた。
「でも、あなたも人間よ。助けが必要なこともある」
麻美は、唇を噛んだ。
「……分かってます。でも、弱音を吐いたら……」
「弱音を吐いたら、どうなるの?」
「……ダメになる気がして」
エレナは、静かに頷いた。
「分かったわ」彼女は言った。「あなたには、『安眠の呪文』が必要ね」
「……本当に、眠れるようになるんですか?」
「それは、あなた次第」エレナは、本棚からノートを取り出した。「でも、呪文は、あなたの背中を押すことはできる」
エレナは、ペンを取り出して、ノートに何かを書き始めた。
「眠れないというのは、心が休めていないということ」エレナは、書きながら言った。「体は疲れていても、心が緊張したままだと、眠れない」
「……心が、緊張?」
「そう。あなたは、ずっと強がっている。弱みを見せないようにしている。でも、それが心を緊張させている」
麻美は、何も言えなかった。
「でもね、麻美さん」エレナは、ペンを止めた。「呪文には、必ず『代償』が必要」
「代償……それは?」
「誰かに、弱音を吐くこと」
麻美は、息を呑んだ。
「弱音を……?」
「そう。あなたの本当の気持ちを、誰かに話して。『辛い』『疲れた』『助けて』って」
麻美は、震える声で言った。
「でも……それは……」
「できないと思う?」エレナは、優しく聞いた。
「……怖いです」麻美は、涙が溢れそうになった。「弱音を吐いたら、もう戻れない気がして……」
「戻れないんじゃない」エレナは言った。「前に進めるの。弱さを見せることは、強さでもある」
麻美は、涙を拭った。
「……やってみます」
エレナは、ノートのページを破り、麻美に手渡した。
「Somnul meu(私の眠りよ)、静かに来い
心を解き放て、弱さを受け入れろ
夜は優しい、私は休む」
「これを、毎晩眠る前に三回唱えて」エレナは言った。「そして、誰かに、本当の気持ちを話して」
麻美は、紙を受け取った。
「ありがとうございます」
麻美は、店を出た。
家に帰ると、麻美は呪文を唱えた。
「Somnul meu……私の眠りよ、静かに来い」
言葉が、部屋に響いた。
「心を解き放て、弱さを受け入れろ」
麻美は、深呼吸をした。
「夜は優しい、私は休む」
三回。
麻美は、ベッドに横になった。
でも、やっぱり眠れなかった。
頭の中で、エレナの言葉が繰り返される。
「誰かに、弱音を吐くこと」
誰に?
同僚の由紀?
でも、何て言えばいい?
麻美は、目を閉じた。
そして、涙が溢れた。
なんで、こんなに辛いんだろう。
なんで、眠れないんだろう。
なんで、弱音を吐いちゃいけないんだろう。
麻美は、枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
翌日、麻美は病院に出勤した。
相変わらず、眠れなかった。
でも、呪文を唱えたおかげか、少しだけ心が軽かった。
午後、麻美は休憩室で由紀と一緒にコーヒーを飲んでいた。
「麻美さん、最近本当に顔色悪いよ」由紀が、心配そうに言った。
「……うん」
「無理してない?」
麻美は、コーヒーカップを見つめた。
言おう。
今、言おう。
麻美は、深呼吸をした。
そして、震える声で言った。
「……実は、眠れないんだ」
由紀は、驚いた顔をした。
「え……?」
「三ヶ月前から、全然眠れなくて」麻美の目から、涙が溢れた。「毎日、三時間も寝れなくて……もう、限界で……」
「麻美さん……」
「ごめん」麻美は、涙を拭った。「こんなこと言っちゃって……」
「ごめんって、何で謝るの?」由紀は、麻美の手を握った。「辛かったんだね」
麻美は、声を出して泣いた。
もう、止められなかった。
「辛いよ……すごく、辛い……」
「分かった、分かった」由紀は、麻美の背中を撫でた。「よく言ってくれたね」
「……怖かった。弱音を吐いたら、ダメになる気がして」
「ダメになんかならないよ」由紀は、優しく言った。「麻美さんは、十分頑張ってる。でも、一人で抱え込まないで」
麻美は、涙を拭いた。
「ありがとう……」
「ね、師長に相談しようよ。少し休みを取った方がいいかもしれない」
「……うん」
由紀は、微笑んだ。
「麻美さん、一人じゃないからね。私たち、仲間でしょ?」
麻美は、頷いた。
そして、初めて、心が本当に軽くなった気がした。
その日の夜、麻美は早めに帰宅した。
師長に相談して、次の日から三日間の休みをもらった。
麻美は、部屋で呪文を唱えた。
「Somnul meu……私の眠りよ、静かに来い」
言葉が、部屋に響いた。
「心を解き放て、弱さを受け入れろ」
麻美は、深呼吸をした。
「夜は優しい、私は休む」
三回。
麻美は、ベッドに横になった。
不思議と、体が軽かった。
頭の中も、静かだった。
麻美は、目を閉じた。
そして、深い眠りに落ちた。
翌朝、麻美は目を覚ました。
窓から、朝日が差し込んでいる。
麻美は、時計を見た。
午前九時。
六時間も、眠っていた。
麻美は、信じられなかった。
本当に、眠れた。
深く、深く。
麻美は、ベッドから起き上がった。
体が、軽い。
頭も、すっきりしている。
麻美は、窓を開けた。
冷たい空気が、頬を撫でる。
麻美は、深く息を吸った。
そして、小さく微笑んだ。
その日の午後、麻美は再び呪文屋を訪れた。
エレナは、同じ場所に座っていた。
「エレナさん」麻美は言った。「眠れました。本当に、眠れました」
「よかったわ」エレナは、微笑んだ。
「弱音を吐いたら……すごく楽になりました」麻美は、涙ぐんだ。「ずっと、一人で抱え込んでたから……」
「あなたは、勇気を出した」エレナは言った。「弱さを見せることは、勇気がいる。でも、それができたから、あなたは本当の休息を得られた」
麻美は、頷いた。
「呪文は、魔法じゃない」エレナは、続けた。「でも、呪文はあなたに『許可』を与えた。弱音を吐く許可。休む許可。それが、あなたを救った」
麻美は、深く息をついた。
「ありがとうございます、エレナさん」
「どういたしまして」エレナは言った。「これからも、自分を大切にしてね」
「はい」
麻美は、店を出た。
階段を降りながら、麻美は思った。
弱さを見せることは、恥ずかしいことじゃない。
助けを求めることは、ダメなことじゃない。
人は、一人じゃ生きられない。
支え合って、助け合って、初めて強くなれる。
麻美は、夕暮れの月島を歩いた。
心は、軽かった。
そして、今夜も、きっと眠れる。
その夜、エレナは一人、窓の外を眺めていた。
月が、静かに輝いている。
彼女は、ルーマニア語で、小さく呟いた。
「Somnul este un dar(眠りは、贈り物)」
そして、蝋燭を吹き消した。
部屋は、闇に包まれた。
でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。
彼女は、思った。
弱さを見せることは、強さだ。
でも、それに気づくまでに、多くの人が時間がかかる。
エレナ自身も、そうだった。
故郷を離れ、遠く日本に来るまで、自分の弱さを認められなかった。
でも、今は違う。
弱さを受け入れることで、本当の強さを得た。
エレナは、小さく呟いた。
「Bună noapte(おやすみなさい)」
そして、目を閉じた。
静かな夜。
優しい闇。
エレナも、深い眠りに落ちた。
―― 第8話 了 ――
次回、第9話「呪文が効かない客」に続く
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