月島の呪文屋 —黒い森から来た魔女の物語—

ソコニ

第1話「最初の客」

 十月の夕暮れ時、川崎美咲は月島の路地を当てもなく歩いていた。

 いつもなら地下鉄の駅から真っ直ぐ帰るはずが、今日はなぜか足が向かなかった。もんじゃ焼き屋が並ぶ商店街を抜け、古い銭湯の脇を通り過ぎ、気づけば見知らぬ路地の奥へと迷い込んでいた。

 三階建ての雑居ビルが並ぶ一角。一階は閉店したらしい古本屋、二階は――。

 美咲の足が止まった。

 階段の途中、古びた木製の看板が掛かっている。黒い地に銀色の文字で、こう書かれていた。

「呪文屋 Vrăjitorie」

 読めない言葉だった。外国語だろうか。でも「呪文屋」という日本語ははっきりと読める。

 美咲は、思わず笑ってしまった。呪文? まさか。こんな下町のビルに、そんな怪しい店があるわけない。きっと占いか、スピリチュアルサロンの類だろう。

 ――でも。

 美咲はスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。午後六時十五分。会社を出てから、もう一時間以上経っている。家に帰っても、することはない。一人暮らしの狭いワンルームで、冷蔵庫の残り物を温めて、テレビをつけて、ソファに座って、スマホを眺めて――。

 そして、また彼のSNSを見てしまう。

 三ヶ月前に別れた元彼、大樹の投稿を。新しい彼女らしき女性との写真を。笑顔の彼を。幸せそうな彼を。

 美咲は、スマホを握りしめた。

 もういい加減、忘れたい。前に進みたい。でも、どうしても忘れられない。

 気づけば、美咲は階段を上っていた。


 二階の扉は、意外なほど普通だった。古いアパートの玄関のような木製のドアに、小さな真鍮のプレートが打ち付けられている。

「呪文屋 予約不要」

 美咲は深呼吸をして、ドアノブに手をかけた。鍵は開いている。

「……失礼します」

 ドアを開けると、鈴の音が鳴った。

 部屋の中は、想像していたよりもずっと落ち着いた雰囲気だった。広さは六畳ほど。壁一面に古い本棚が並び、色褪せた革表紙の本が整然と並んでいる。文字は読めない。ルーマニア語だろうか、あるいはラテン語か。

 窓際には小さな丸テーブルと二脚の椅子。テーブルの上には、白い蝋燭が一本、静かに燃えている。

 そして、奥の椅子に座っている女性がいた。

「いらっしゃい」

 声は低く、静かで、でもどこか温かかった。

 美咲は思わず息を呑んだ。

 女性は――おそらく三十代前半だろうか――黒い長袖のワンピースを着ていた。髪は黒く、肩まで真っ直ぐに伸びている。肌は白く、頬骨が高い。そして、琥珀色の瞳。

 美しい、と美咲は思った。でもそれ以上に、この人は「ここにいるべき人」だと、なぜか確信した。まるでこの部屋そのものが、彼女のために存在しているかのように。

「座って」

 女性は、テーブルの向かい側の椅子を示した。

 美咲は頷いて、椅子に座った。蝋燭の炎が、ゆらりと揺れた。

「私はエレナ」女性は言った。「エレナ・ポペスク。この店の主人」

「川崎、美咲です」

「美咲さん」エレナは、ゆっくりと名前を繰り返した。「あなたは、何を求めてここに来たの?」

 美咲は、一瞬言葉に詰まった。

 何を求めて? 自分でもよく分からない。ただ、忘れたい。前に進みたい。でも、どうすればいいのか分からない。

「……忘れたいんです」美咲は、ようやく口を開いた。「元彼のこと。三ヶ月前に別れたんですけど、まだ……引きずってて」

 エレナは、黙って聞いていた。

「SNSで、彼の投稿を見ちゃうんです。新しい彼女がいるみたいで。すごく幸せそうで」美咲は、声が震えるのを感じた。「私だけ、取り残されてる気がして。前に進めなくて」

 エレナは、静かに頷いた。

「分かったわ」彼女は言った。「あなたには、『解放の呪文』が必要ね」

「……呪文?」

「そう。呪文」エレナは立ち上がり、本棚に向かった。「呪文というのは、ただの言葉じゃない。それは、あなた自身を変えるための『鍵』。心の奥底に眠っている力を、目覚めさせるための言葉」

 彼女は本棚から一冊の古いノートを取り出し、テーブルに戻った。ノートを開くと、ペンを取り出して、何かを書き始めた。

「ルーマニアでは、昔から呪文が使われてきた」エレナは、書きながら言った。「病を治すため、愛を呼ぶため、悪いものを遠ざけるため。呪文は、祖母から母へ、母から娘へと受け継がれてきた」

「……エレナさんも、誰かから?」

「私の祖母から」エレナは、一瞬だけ表情を緩めた。「祖母は、村で一番の呪文使いだった。黒い森の奥深くに住んで、困った人たちを助けていた」

 黒い森。美咲は、その言葉に不思議な響きを感じた。

「でもね、美咲さん」エレナは、ペンを置いた。「呪文には、必ず『代償』が必要」

「……代償?」

「そう。何かを得るためには、何かを手放さなければならない。それが、呪文のルール」

 エレナは、ノートを美咲に向けた。

 そこには、ルーマニア語と日本語が混ざった文章が書かれていた。美しい、流れるような筆跡で。

「これが、あなたの呪文」エレナは言った。「『解放の呪文』。これを、毎晩眠る前に三回、声に出して唱えて」

 美咲は、ノートを覗き込んだ。

「Inima mea(私の心よ)、過去を森に還せ

痛みは土に、涙は雨に

新しい朝が来る、私は自由」

 美咲は、その言葉を何度か読み返した。不思議な言葉だった。でも、なぜか心に響いた。

「これを……唱えれば、忘れられるんですか?」

「忘れるかどうかは、あなた次第」エレナは言った。「呪文は、魔法じゃない。呪文は、あなたの背中を押すだけ。実際に一歩踏み出すのは、あなた自身」

 美咲は、頷いた。

「それで……代償は?」

 エレナは、美咲の目を真っ直ぐに見た。

「彼からもらったもの、全て」

 美咲の息が、止まった。

「プレゼント、写真、メッセージ。彼との思い出が詰まったもの、全て。それを、手放して」

「……全部?」

「全部」エレナは、静かに言った。「それができないなら、呪文は効かない。あなたは、まだ彼を手放す準備ができていないということ」

 美咲は、唇を噛んだ。

 大樹からもらったもの。誕生日のネックレス。クリスマスのマフラー。二人で撮った写真。スマホに残っているメッセージ。

 全部、捨てるのか。

「……考えます」美咲は、震える声で言った。

「いいわ」エレナは、ノートのページを破り、美咲に手渡した。「この呪文は、あなたのもの。準備ができたら、唱えて。代償を払う覚悟ができたら」

 美咲は、紙を受け取った。

「あの……お代は?」

「お金はいらない」エレナは首を振った。「呪文屋は、対価を金銭では受け取らない。代償だけで十分」

 美咲は、戸惑いながらも立ち上がった。

「ありがとうございました」

「また来て」エレナは、微笑んだ。「あなたが望むなら、いつでも」

 美咲は、頷いて、店を出た。


 家に帰ると、美咲はすぐにクローゼットを開けた。

 奥にしまってある箱。大樹からもらったものを、全部入れてある。

 ネックレス。マフラー。手紙。二人で行った旅行のチケットの半券。

 美咲は、箱を抱きしめた。

 これを、全部捨てるのか。

 彼との思い出を、全部手放すのか。

 美咲は、箱を床に置いて、エレナからもらった紙を見た。

「Inima mea(私の心よ)、過去を森に還せ

痛みは土に、涙は雨に

新しい朝が来る、私は自由」

 美咲は、深呼吸をした。

 そして、声に出して、呪文を唱えた。

「Inima mea……私の心よ、過去を森に還せ」

 言葉が、部屋に響いた。

「痛みは土に、涙は雨に」

 美咲の目から、涙が溢れた。

「新しい朝が来る、私は自由」

 美咲は、もう一度、そしてもう一度、呪文を唱えた。

 三回。

 そして、箱の中のものを、一つずつ取り出し始めた。


 翌朝、美咲はゴミ袋を持って、マンションのゴミ置き場に向かった。

 袋の中には、大樹からもらったもの全てが入っている。

 ネックレスも、マフラーも、写真も、手紙も。

 美咲は、袋をゴミ置き場に置いた。

 そして、深呼吸をした。

 不思議と、心が軽かった。

 スマホを取り出し、大樹のSNSアカウントをブロックした。もう見ない。もう、追いかけない。

 美咲は、空を見上げた。

 十月の朝の空は、どこまでも青かった。

「新しい朝が来る、私は自由」

 美咲は、小さく呟いた。

 そして、会社に向かって歩き出した。


 その夜、美咲は再び月島の路地を訪れた。

 階段を上り、呪文屋のドアを開けた。

 エレナは、同じ場所に座っていた。まるで、美咲が来ることを知っていたかのように。

「エレナさん」美咲は言った。「代償、払いました」

 エレナは、静かに微笑んだ。

「よく頑張ったわね」

「でも……これで、本当に忘れられるんでしょうか」

「忘れる必要はない」エレナは言った。「大切なのは、過去に囚われないこと。思い出は残っていい。でも、それに支配されてはいけない」

 美咲は、頷いた。

「呪文は、あなたに『許可』を与えただけ」エレナは続けた。「前に進む許可。自分を解放する許可。本当に一歩を踏み出したのは、あなた自身」

 美咲の目から、また涙が溢れた。

 でも、今度は違った。悲しい涙じゃなく、何かが解けていく涙だった。

「ありがとうございます」美咲は、涙を拭いながら言った。

「どういたしまして」エレナは言った。「また、何か困ったことがあったら来て。呪文屋は、いつでもここにあるから」

 美咲は、深く頭を下げて、店を出た。

 階段を降りながら、美咲は思った。

 エレナは、本当に魔女なのだろうか。

 呪文は、本当に効いたのだろうか。

 それとも、ただ自分が変わる勇気をもらっただけなのだろうか。

 でも、どちらでもいい。

 大切なのは、今、自分が前を向いて歩いているということ。

 美咲は、夜の路地を抜けて、駅に向かった。

 背後で、呪文屋の看板が、静かに風に揺れていた。


 その夜、エレナは一人、蝋燭の前に座っていた。

 窓の外には、満月が浮かんでいる。

 彼女は、ルーマニア語で、小さく呟いた。

「Bună seară, bunico(おやすみなさい、おばあちゃん)」

 そして、蝋燭を吹き消した。

 部屋は、闇に包まれた。

 でも、エレナの琥珀色の瞳だけが、月明かりの中で、静かに輝いていた。

―― 第1話 了 ――


次回、第2話「仕事運の代償」に続く

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