第5話 紗枝という女
灯の落ちた蔵は、じっとりとした夏の名残を漂わせていた。
紗枝は静かに、しかし確かな足取りで吾郎の前に立つ。
「ねえ……あんた、今夜は……抱いてくれん?」
絹世のような甘ったるさはない。
地を這うような湿った声。それでも、あの頃と同じ瞳で彼を見上げていた。
だが吾郎は目を逸らす。
「……あんた、もう……けがらわしいよ」
言葉の刃が、紗枝の頬を打つ。
顔を押さえながらも、紗枝はまっすぐに見据える。
「違うのよ、吾郎。私は……好きであんな男に身を許したんやない。
あの日、あんたがおらんかった夜、……公造に無理矢理、されたの……」
吾郎の目が揺れる。紗枝の手が、そっと彼の胸元に伸びる。
「産まされたんよ……この腹の子は、望んだ命やなかった。
でも、産んだ今は……もう、わからへん。
この子のためにも……私、自分の居場所を作らなあかん思てる」
かつては一途で少し臆病だった女中は、今や──
瞳に野心と渇望を宿し、奥様のような艶を纏っていた。
「この屋敷を、あんたと二人で、乗っ取ろう。
奥様の座も、絹の着物も、あんたにくれてやる身体も……
ぜんぶ、手に入れるの」
吐息混じりの囁きが吾郎の首筋をかすめ、背筋にぞくりとしたものが走る。
──怖い。けれど、抗えないほど美しい。
紗枝の指が肩を撫で、腰に絡むように触れる。
「ねえ……どう? あんた、もう、私から目を離せんやろ……」
計算された微笑みと、甘く震える声。
それは男を惑わし、理性を崩す魔法のようだった。
吾郎の胸の内で、葛藤が渦巻く。
悲劇的で妖艶な絹代を抱いた翌日、元恋人の幼さが消え、一人の淫靡な女に変わった姿で迫られる。
ーー目の前で妖しく笑い、欲望に飲まれた紗枝。
彼女の瞳の奥で、勝者の光がちらりと輝くのを、吾郎は否応なく感じていた。
――恐ろしくも、美しいその姿に、理性は確実に溶けていく。
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