第7章:すっごく痛かった
カペラは肩で扉を押しながら、小屋を出た。
手には一本の杖を持っていた。黒い木でできており、細い木目が陽の光を吸い込むように走っていた。先端には透明な球体が嵌められ、まるで小さな世界を閉じ込めたように周囲を映している。
アイリスはおずおずと後を追った。畑のそばのぬかるみを踏まないように注意しながら歩く。外の空気は……違っていた。
生きているように感じた。
葉が揺れ、小さな虫たちが飛び、池ではクープたちが水をはね上げていた。
息をするたびに森の音が混じり、胸の奥に、恐怖に似た――でも少し温かい――感覚が生まれた。
カペラは水辺の前で立ち止まった。
「アイリス、見て。」
杖の先を池に向ける。
唇が動いた。風に溶けて消えるような言葉。
次の瞬間、水面が震え、透明な渦が立ち上がった。
細かな水滴が空中に浮かび、光を受けて蛍のように瞬く。
アイリスの目が大きく見開かれる。
一歩、前へ。口をわずかに開け、息を忘れる。
胸の中が軽く、少し熱を帯びていた。
何なのか分からない。けれど、目を離せなかった。
「この世界はね、いくつもの“エネルギー”で動いている。」
カペラは水の舞いを見つめたまま言った。
「その中でも、“マナ”は最も古く――最も危険なもの。」
アイリスの唇がかすかに動いた。
「マナ……? マジカって……それは――」
言葉の続きは悲鳴に変わった。
身体が突然折れ曲がり、膝から地面に崩れ落ちる。
息が詰まり、震えが背骨を駆け上がった。
左腕が淡い光を放ち、皮膚の下で金属の線が脈を打つ。まるで中から破れようとしているように。
「アイリス!」
カペラが駆け寄り、肩を支える。
だが少女の身体は激しく痙攣し、背中が弓のように反る。
焦げた金属の匂いが漂った。
「やめ……て……」
アイリスの声は掠れて震えた。
カペラは力強く抱きとめ、地面に打ち付けないように抑えた。
やがて、光が薄れ、震えも静まっていく。
アイリスの息は荒く、顔は汗と土で汚れていた。
静寂。
ただ、池の水が静かに落ちる音だけが残った。
カペラは少女を見つめた。
理解は追いつかない。だが、この子がただの迷子ではないことだけは確かだった。
深く息を吸う。湿った土と焦げた金属の匂いが鼻を刺す。
片手を上げると、杖がふわりと浮かび、目の前に戻ってきた。
その先端の球体が、淡い緑の光を放ち始める。
「アイリス、動かないで。」
光がアイリスの身体を包み込む。
薄い霧のように広がり、肌を優しく撫でる。
腕の光が明滅し、痛みが少しずつ和らいでいく。
カペラは黙って見つめた。
それは簡単な治癒の呪文。
だが、アイリスの中では何かが違っていた。
その魔法は、ただ“痛み”の奥にある“異物”を覆い隠すだけに思えた。
光が消えた。
少女はまだ震えていたが、もう叫ばなかった。
呼吸が落ち着く。
そしてカペラは気づいた――彼女の顔に、涙が一滴もない。
「泣かないのね……」
誰に言うでもなく呟く。
「普通なら泣くのに。」
アイリスは小さく息をして、唇を動かした。
「……泣いても、意味がないから。」
その言葉は、まるで昔に刷り込まれた記憶のようだった。
カペラはしばらく黙って少女の腕を取った。
皮膚の下には硬い何かがある。金属のような感触。
骨に張り付くように存在していた。
「これは……何なの……?」
答えはなかった。
アイリスは目をそらし、ただ立ち上がろうとした。
泥まみれの膝が震え、それでも立ち上がる。
カペラは手を差し伸べかけ、やめた。
少女が自分の力で立ち上がるのを見届けた。
森の葉が風に揺れ、静寂が戻る。
池の水の音だけが残った。
カペラは少女の腕を両手で包み込む。
皮膚の下の金属が、触れるたびにかすかに脈を打つ。
「アイリス……」
その声は優しく、けれど真剣だった。
「ごめんね。でも、それは……取り除く。」
杖の先端が少女の胸の前にかざされる。
球体が回転を始め、青と金の光が交じり合う。
古い言葉が静かに紡がれる。
空気が震えた。
アイリスが何かを言おうとした瞬間、
胸の奥に温かい波が走り、視界が淡く霞んだ。
森も、池も、空も――
すべてが、柔らかな光に溶けた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
目を覚ますと、知らない天井があった。
一瞬、またあの白い部屋かと思った。
けれど、ここは違う。
空気が木と土と、消えかけた火の匂いで満たされていた。
「知らない天井だ……」と、心の中で呟く。
身体を動かす。重いけれど、痛みはない。
ただ――腕だけ。
そっと持ち上げる。
不快感はない。むしろ、軽い。
前よりずっと。
自分の手が、また自分のものに戻った気がした。
肌は白く、細い線が一本、消えかけた傷のように残っている。
指をゆっくり握る。
その音が妙に懐かしかった。
いつぶりだろう、こんな“普通”を感じたのは。
顔を横に向ける。
窓の外から、朝の光が差し込んでいた。
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