消された記録、残された真実――偽史採集官・零域ファイル――

ソコニ

第1話「白鷺村の不在証明」


 ナビが狂ったのは、国道を外れて二十分後だった。

「目的地周辺です」

 スマートフォンの機械音声が告げる。しかし、フロントガラスの向こうに広がるのは、杉林と崩れかけたガードレールだけだ。集落の気配はない。

 真壁燈士は車を停め、画面を確認した。青い円が点滅している。確かにここだ。地図上では「白鷺村」と表示されている。だが、周囲に建物は見当たらない。

 エンジンを切ると、森の静けさが耳を圧迫した。

 車を降りる。十一月の冷気が首筋を撫でた。真壁は無意識に襟を立て、獣道のような細い坂を登り始めた。


 五分ほど歩くと、視界が開けた。

 集落があった。

 古い木造家屋が二十軒ほど、緩やかな斜面に点在している。屋根は苔むし、壁は黒ずんでいるが、倒壊はしていない。洗濯物が干されている家もある。人が住んでいる。

 真壁は立ち止まり、もう一度スマートフォンを見た。地図アプリには確かに「白鷺村」と表示されている。しかし、国土地理院の地形図を開くと、そこは空白だった。何も記されていない。

 ポケットから手帳を取り出し、メモを走り書きする。

・地図アプリにのみ表示

・住民の存在を確認

・公的記録なし

 手帳を閉じ、村へ足を踏み入れた。


 最初の家の前を通り過ぎる。庭先に老人が座っていた。

「こんにちは」

 真壁が声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。七十代か、それ以上。目に力はあるが、表情は無い。

「……どちらさんで」

「真壁と申します。この村について調べています」

 老人は黙って真壁を見つめた。その視線は値踏みするようでもあり、諦めているようでもあった。

「ここは白鷺村でしょうか」

「ああ」

「住民登録は」

「ない」

 即答だった。真壁は眉を寄せた。

「戸籍は」

「ない」

「では、どうやって生活を」

「ここにいるだけだ」

 老人は言葉を切り、空を見上げた。

「記録されてないからといって、存在しないわけじゃない」


 真壁は村を歩いた。

 すれ違う住民は皆、老人と同じ反応を示した。驚きもせず、拒絶もせず、ただ淡々と真壁を見る。まるで、外部からの訪問者がいることを――そして、それが何の意味も持たないことを――知っているかのように。

 役場らしき建物はなかった。学校も、商店も、郵便局もない。ただ家々が並び、人々が静かに暮らしている。

 集落の奥に神社があった。鳥居は傾き、石段には落ち葉が積もっている。真壁は石段を登った。

 拝殿の扉は開いていた。

 中に入ると、埃と湿気の匂いがした。薄暗い空間に、古い木箱がいくつか積まれている。真壁は懐中電灯を取り出し、箱の一つを開けた。

 中には写真が入っていた。

 色褪せたポラロイド写真。白黒のプリント。デジタルカメラで撮影したものを印刷したらしい画像。年代はバラバラだが、どれも同じ場所――この村――を写している。

 真壁は一枚ずつ確認していった。

 そして、手が止まった。


 写真に写っているのは、子供だった。

 五歳くらいの男の子。半袖のTシャツを着て、神社の境内で笑っている。背景には、今と同じ鳥居が映っている。

 写真の裏には、マジックで日付が記されていた。

1995.8.12

 真壁は写真を持ったまま、動けなくなった。

 この子供は――自分だった。

 顔立ちが似ているという程度ではない。右の眉に残る小さな傷。左耳の形。間違いなく、自分だ。

 しかし、1995年の夏、真壁は東京にいた。祖母の家で過ごしていたはずだ。この村に来た記憶はない。

 写真を裏返し、もう一度日付を確認する。1995.8.12。日付は鮮明だ。

 真壁は他の写真も探した。

 あった。

 同じ日付の写真が三枚。どれも真壁――幼い自分――が写っている。村の風景の中で遊んでいる姿。誰かと手を繋いでいる姿。だが、一緒にいる人物の顔はぼやけて判別できない。


「見つけたか」

 背後から声がした。

 真壁は振り返った。老人が立っていた。最初に会った老人ではない。もっと年老いて、背中が丸まっている。だが、目は鋭い。

「この写真は」

「お前だろう」

 真壁は黙った。

「覚えてないのか」老人は言った。「まあ、そうだろうな。消されたんだから」

「消された?」

「この村は、記録されない。お前も、記録されていない」

 老人は神社の柱に手をついた。

「ここにいた人間は皆、外の世界では存在しないことになっている。戸籍も、住民票も、学校の記録も、病院の記録も。全部、消される」

「なぜ」

「実験だよ」

 老人の声は、抑揚を失っていた。

「国がやった。1990年代の終わり頃だ。情報管理システムのテストだと言われた。選ばれた村の住民を、データ上から完全に削除する。そうすれば、どんな人間でも"いなかったこと"にできる。便利だろう?」

 真壁の喉が渇いた。

「お前もその一人だった」老人は続けた。「1995年の夏、ここに連れてこられた。たぶん、親が実験に協力したんだろう。金でも渡されたのか、脅されたのか。知らん。とにかく、お前はここにいた」

「それなら、なぜ僕は東京にいた記憶が」

「記憶も消される」

 老人は真壁を見た。

「実験の最終段階では、記憶の改竄も行われた。お前の脳に残っていた"白鷺村の記憶"は消去され、代わりに"東京で暮らしていた記憶"が植え付けられた。だが――」

 老人は首を傾げた。

「お前は失敗作だったらしい。記憶は消えたが、完全には上書きされなかった。だから、時々、変な感覚があるんじゃないか? 自分が"ここではない場所"にいたような気がする、とか」

 真壁は答えられなかった。

 確かに、あった。

 幼い頃から、時折感じる違和感。自分が"どこか別の場所"にいたような、誰か別の人間だったような、曖昧な感覚。それは夢とも記憶ともつかず、掴もうとすると消えてしまう。

「お前は運が良かった」老人は言った。「記憶の改竄が中途半端だったから、外の世界で生きられた。ここに残った連中は、完全に消されて、もう戻れない」

「戻れない?」

「ああ」

 老人は神社の外を指差した。

「この村を出ても、誰もお前たちを認識しない。顔認証システムも反応しない。銀行口座も作れない。仕事にも就けない。存在しないんだから」


 真壁は写真を握りしめた。

「この村の住民は、何人いるんですか」

「今は二十三人だ。昔はもっといた」

「減ったのは」

「死んだからだ」老人は淡々と言った。「ここで死んでも、死亡届は出せない。墓も作れない。記録がないからな。だから、山に埋める」

 真壁は息を吸った。

「あなたは」

「俺も被験者だ」老人は微笑んだ。「昔は教師だった。家族もいた。だが、ある日突然、ここに連れてこられて、全部消された。もう四十年以上前の話だ」

「なぜ、公表しないんですか」

「できるわけがない」

 老人の声が低くなった。

「記録がないんだぞ。俺たちが訴えたところで、『そんな人間は存在しません』で終わりだ。裁判も起こせない。メディアに訴えても、『妄想』で片付けられる。証拠はあるか? ない。全部消されてる」

「でも、この村は」

「ああ、村はある」老人は頷いた。「物理的には、な。だが、データ上では存在しない。お前が使ってる地図アプリにだけ表示されるのは、システムのバグだろう。本来なら、それも消されるはずだったんだが」


 真壁は写真を見つめた。

 自分が写っている。確かに、ここにいた。

 だが、その記憶はない。

「実験は、まだ続いているんですか」

「さあな」老人は肩をすくめた。「もう誰も来ない。監視カメラもない。ただ、時々、誰かが様子を見に来る。お前みたいにな」

「僕は偶然」

「本当にそうか?」

 老人の目が真壁を捉えた。

「お前の首、見てみろ」

「首?」

 真壁は首筋に手を当てた。何もない――はずだった。

 だが、指先に、わずかな凹凸を感じた。

 老人が懐中電灯を真壁の首に向けた。鏡を差し出す。

 真壁は鏡を覗き込んだ。

 首筋、耳の下あたりに、小さな痣があった。いや、痣ではない。刺青でもない。

 それは、記号だった。

 数字と記号の組み合わせ。SR-9508-12。

「それが、お前の識別コードだ」老人は言った。「白鷺村の被験者には、全員刻印されている。皮膚の下に、特殊なインクで」

 真壁は鏡を握りしめた。

「消去実験の証拠だよ」老人は続けた。「お前は消されたんだ。そして、その痕跡だけが残ってる」


 真壁は神社を出た。

 村を見下ろす。夕暮れが近い。家々の窓から、わずかな明かりが漏れている。

 老人は真壁の後ろに立っていた。

「お前は、どうするつもりだ」

 真壁は答えなかった。

「ここに残るか? それとも、また消えるか?」

「……僕は、外で生きています」

「そうか」

 老人は小さく笑った。

「なら、忘れることだ。この村も、この写真も、お前がここにいたことも。全部、忘れろ。その方が楽だ」

「忘れられますか」

「いや」

 老人は首を振った。

「忘れられない。お前の中には、まだ残ってる。消されなかった記憶の欠片が。それが、時々、お前を苦しめる」


 真壁は村を後にした。

 車に戻り、エンジンをかける。ナビは、もう白鷺村を表示していなかった。地図上から、消えている。

 真壁はバックミラーで自分の首を見た。刻印は、まだそこにあった。

SR-9508-12

 数字が、薄暗い車内で浮かび上がっている。

 真壁はアクセルを踏んだ。


 その夜、真壁は自宅のアパートで、幼少期のアルバムを引っ張り出した。

 1995年の写真を探す。

 あった。

 祖母の家で撮影された写真。東京の夏祭りの写真。海水浴の写真。

 全部、自分が写っている。

 だが――。

 真壁は一枚の写真を手に取った。

 1995年8月12日の日付。祖母の家の庭で撮影されたもの。自分が笑っている。

 しかし、よく見ると、背景がぼやけている。

 不自然なほど、ぼやけている。

 まるで、後から合成されたかのように。


 真壁はアルバムを閉じた。

 部屋の明かりを消し、ベッドに横になる。

 天井を見つめた。

 記憶が、じわじわと浮かんでくる。

 森の匂い。古い木の手触り。誰かの声。

 ――お前は確かにここにいた。そして消された。

 真壁は目を閉じた。

 首筋が、微かに疼いた。

 刻印が、熱を持っているような気がした。

 それとも、錯覚か。

 真壁は、もう分からなかった。


【第1話 終】


執筆後記:

この物語に登場する「白鷺村」は架空の地名です。しかし、地図に載らない集落、記録されない人々――そうした"不在"は、あなたの隣にも存在しているかもしれません。

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