サキュバスは狼男の夢を見ない
無沙(むさ)
第1話 サキュバスの少女
着ている服と言えば着古したデニムのオーバーオールの上に、良くある紺色の綿入り
寒い!
このまま死んじゃうのだろうか。なんて短い人生だったんだろう。こんな格好で死んだ娘を見た両親はどう思うんだろう。せめてもう少しちゃんとした格好で死にたかった。
未千流の両側には真っ黒にそびえ立つブロック塀。そしてその塀の隙間から覗く星空の真ん中には、食べ終わったスイカの皮のように薄っぺらく青白い月が輝いていた。吐き出す息が白い幕のようにその星空を覆っていく。未千流は細長い月に別れを告げ、静かに目を閉じた。
…頭の下、ゴリゴリするなぁ。
未千流が今回請け負ったプロジェクトは、既存の博物館に新しく立ち上げるイベントの映像制御プログラム。イベント用なので運用は先方任せで更新の必要も無し、売り切りの単発仕事。納期も問題なし。
楽な仕事のはずだった。
なのに、あのくそ教授! 大学の先生なんていう、偉そうな肩書を持っている人間などわたしは知らないが、きっとろくな奴はいないに違いない。
全部完了してから最後にチェックした、だと!
どうやら、最終納品後に『先生、確認お願いします』的な仕事だったらしい。で、結果はここはこうしなけりゃダメの修正の嵐!
『先生のいう事は絶対なので、よろしく』だと!
死ね!と言いたいところだが、徹夜続きになって死んだのは未千流だった。
最後の力を振り絞って、データを送信。納品は完了。だが、エネルギーが切れている! 未千流は
だが、神はわたしを見放した。あと一歩というところで未千流はドリンク剤にたどり着くことが出来ず、力尽きたのだった。
「ねえ、大丈夫? 生きてる?」
誰かがわたしの眠りを妨げようとしていた。
「誰だ! 私の眠りを妨害する不届き物は!」
心の声と共に未千流は不機嫌なその重い瞼を持ち上げた。
焦点の合わない目を声の方に向けると、星空を
テラテラと星の光を反射するエナメルの黒い衣装は、彼女の身体のラインを余すことなく表していた。後ろに一纏めにしている長い髪は、目にも鮮やかなピンク色。小柄な顔にキラキラと輝くエメラルドの瞳。極めつけは背中で揺れている巨大な真っ黒いコウモリの翼。
未千流は、目を見開いた。こ、これは、本物の女神さまだ。そうだ、そうに違いない!
アニメや小説ではよくある話じゃないか。事故で死んだり、過労死した主人公が女神に拾われて転生するって話。そうか、神はわたしを異世界へ転生させるためにこの女神を遣わしたのだ。
未千流は新しい使命に応えようと、女神に手を伸ばして起き上がろうとした。が、力など出るはずもなく、そのままバタリとアスファルトの上に倒れ込んだ。ゴンッという音が頭に響く。痛い!
「あら、ダメみたいね。救急車呼んだ方がいいのかしら?」
女神はしゃがみ込むと、未千流の額に手を当てた。
女神が救急車とは! 今時の女神はなんて現実的なんだろう。そんなことを考えながら、未千流は薄目を開けた。その瞬間、未千流の目には、女神が手にしているドリンク剤のボトルが飛び込んできた。
「こ、これだ! これがわたしが探し求めていたもの!」
どこにそんな力が残っていたのだろう? 突然ガバッと起き上がった未千流は、女神の手からそのドリンク剤を奪い取った。
プチッという気持ちの良い音とともにキャップを捻り、一気に飲み干す。
「プッハー、 生き返るぅー」
うん!これだよこれ! これを待っていたんだ。転生なんかくそくらえだ!
「わわわわワ! …あなた何するのよ、そんなもの飲んだら死んじゃうわよ!」
女神が何か叫んでいたが、そんなことはどうでもいい。未千流はドリンク剤が、自分の身体の隅々まで染みわたって行くのを感じていた。
「素晴らしい! 全身に力がみなぎって来る」
叫びながら、ガッツポーズを取る未千流。先ほどまで寒さに凍えていたのがウソのようだ。身体がポカポカと…、と言うよりは熱いな…。なんか暑すぎるような気がする…。
ブボホッと、何か熱いものが口から飛び出し、周りの景色が真っ赤に染まった。
痙攣しながら人間とは思えない形に身体を歪めている未千流を見て、女神が後ずさる。
「どうしよう、どうしよう! ヤバい、ヤバいわこれ! 間違いなくアウトだわ」
女神は両手を口に当てて立ち尽くすと、周りを確認した。ここは細い路地の中、今のこの状況は誰も見ていない。
「とにかく証拠品を回収しないと」
未千流は痙攣したままだが、ドリンク剤のボトルはまだその手の中にある。女神はそのボトルを奪い取ろうと手を伸ばしたが、未千流は放そうとしない。
「もうっ、放しなさいってば!」
女神は未千流の身体に圧し掛かって、渾身の力を入れた。未千流はその身体を押される感触に半ば意識を現実に戻され、薄目を開けた。
身体が燃えるように熱い。世界はすっかり変質していて全てがピンク色に染まって、回転していた。未千流はその世界の中心に、おいしそうな唇の形のゼリーがプルプル震えているのを発見した。その唇は『わたしを食べて』と未千流を誘っていた。
「こ、これは! 今度は唇がわたしを誘っている」
未千流は欲望に導かれるまま、その唇に吸い付いた。
女神が悲鳴を上げ、逃げようとするも時すでに遅し! ブッチューという下品な音が路地に響きわたる。
「ウキャッ、止め…てっ…!」
女神は未千流に引き倒され、しばらくもがいていたのだが、やがて力尽きておとなしくなった。
未千流が彼女の唇に吸い付いていた時間は1分以上になったが、その間未千流は自分が何をしているかの自覚も無く、ただ気持ちの良い夢の中に漂っていた。
気が付くと、未千流はアスファルトの上にペタンコ座り、お尻が冷たい。何故か半纏が脱げていて遠くに落ちていた。
見上げると、冬の星空がとても綺麗に見えた。考えてみれば夜の空を見上げることなど暫くなかったような気がする。
それにしてもここはどこだろう? ブロック塀に囲まれた細い路地。そう言えば仕事を終えて、コンビニに向かった記憶がある。どうやらここはそのコンビニに行く途中の路地のようだ。
しかしコンビニに辿り着いた記憶は無いのに、不思議と今、疲れも寒さも感じていない。とは言え、わたしの横で白目をむいて倒れている、このコスプレ衣装の女の子は一体何なんだろう。頭がボーっとして、状況が理解できない。
未千流がスマホを取り出して時間を確認すると、まだ夜中の12時前。人通りは皆無。こんなところに気絶しているコスプレ風の女の子と未千流だけ。おかしすぎる。
ふと、未千流の脳裏をピンク色の唇の映像が横切り、悪寒が走った。
わたし、この
「うううっ」とその女の子が呻きながら身体を起こした。
月の光に浮かぶ白い顔の大きな黒い目がじろりと未千流を睨む。やっぱり何か有ったのは間違いなさそうだ。
女の子はゆらりと立ち上がった。
「……あなた、生きてたのね」
未千流を見下ろす小柄な女の子の白い肌と、その身にまとう黒い衣装の対比が印象的だった。そしてその黒いエナメルの衣装は、腰元が細く絞られている上に胸元は大きく空けられ、その細い身体の女性らしいラインをしっかりと見せ付けている。そこに繋がる短いフリルの重なったスカートの端にはレースがあしらわれ、色気と言うよりは少女らしい可愛らしさを強調しているように見えた。
その女の子の長い栗色の髪が夜風に乱れるが、ふと未千流はその色に違和感を覚えた。
「どう責任取ってくれるのかしら?」
女の子は腰に手を当て怒っているポーズを取るのだが、身体に力が入らないらしく全く迫力が無い。
「寒っ!」
女の子は自分の両肩を抱えてブルっと震えた。
うん、そうだろう。確かにその恰好は実に寒そうだ。
女の子は近くにひっくり返っていた黒いキャリーバックを開け、中からダウンの黒いロングコートを引っ張り出すと、コスプレ衣装の上に羽織った。
「お腹空いたわ、何か食べる物持ってないの」
「いや、わたしコンビニに行く途中だったから…」
「ならそのコンビニで何か買って」
きっと否定できない何かがあるのだろう。そう未千流は理解して、自分も落ちていた半纏を羽織って、コンビニに向かうことにした。
その後コンビニでお弁当やら、その他もろもろを買うことになるのだが、支払いが未千流だったのは言うまでもないだろう。
コスプレ風の少女は、
未千流は住宅街の中にある、7階建てのマンションの3階に部屋を借りていた。深夜ともなると管理人室も閉まっているので、エントランス内に人影は無い。
未千流がエレベーターのボタンを押すと、エレベーターホールにはエレベーターの動作音だけが響き、不思議な緊張感が漂う。
エレベーターの到着を知らせる電子音が鳴ってドアが開くと、先に乗り込んだ未千流は3階のボタンを押した。なんでエレベーターに乗ると皆んな黙っちゃうんだろう。
未千流は3階の自分の部屋の深緑色のドアのロックを外すと、少女を招き入れた。暖房は入ったままだったので、その温かさにホッとする。
アナは一直線にダイニングのテーブルに向かうと、コンビニ弁当を広げた。本当に空腹だったようでコートも脱がず、未千流のことなど全く目に入っていないかのようだ。
未千流はそんなアナを横目に見ながら、キッチンの水切りからガラスのコップを2つ取り出し、冷蔵庫に入っていたお茶を注いだ。1つをアナの前に差し出し、テーブルの向かいの席に座る。コンビニ袋の中の抹茶白玉のムースに目をやるが、取り出す気も起きなかった。全く食欲が起きない。
アナは一つ目のお弁当をあっという間に平らげ、コップのお茶を飲み込むとやっと未千流の方に目を向けた。
「未千流ちゃん、ここで1人暮らしなの?」
アナは未千流の部屋の中を意味ありげに観察する。
ダイニングには2人掛けの小さな白いテーブル。一人暮らし用の小さな赤い冷蔵庫。キッチン横の食器棚には自分用と思われる可愛らしい食器しか置いていない。相方の男がいるという事も無さそうだ。
「そうだけど」
「ふーん、家族居なくてよかったわ。…換気扇回しておいた方がいいわよ」
アナは既に冷めているホットドッグの包みを開いて口に運ぶ。
「…換気扇?」
コンビニ弁当の匂いでも気になるのだろうか。そう思いながら未千流は立ち上がってキッチンの換気扇のスイッチを入れた。
未千流ちゃんかぁ、まぁいいけどね。
それにしても家族がいなくてよかったとは、どういう意味だろう?
深夜にアナのように派手な衣装の友達を連れ込んだら、家族が驚くだろうとは思う。しかしアナの言葉はもっと別のことを意味しているように思えた。
「さて、どうしようかしら」
アナは口元のケチャップを手の甲でぬぐうと、未千流に向き直った。
「念のため聞いておくけど、あなた、普通の人間なのよね?」
アナがコートを脱いでキャリーバッグの上に置いたので、未千流は目のやり場に困ってしまう。同性とは言え、アナの衣装は直視するには気恥ずかしい。未千流はアナの質問の意図を計りかねていた。
「普通ってどういう意味?」
こんな仕事してるし、変わり者かもしれないけど、普通の範囲の中にいるつもりではある。
「解らないのなら、鏡で自分の顔を見てみるといいわ」
顔に何かついているというのだろうか? 不審に思いながら未千流は脱衣場に向かい、洗面台の鏡で自分の顔を鏡で確認した。
え? 未千流は鏡の中の自分の顔を見て思わず息を飲んだ。なんだろう? 鏡の中の自分の目が光っている。というより、目の中で緑色の炎が揺らめいているかのようだ。思わず前に乗り出し、下目蓋を引きながら覗き込む。
「それが普通の人間の目だと思う?」
アナの吐息を耳元に感じて、未千流は悲鳴を上げた。鏡の中のアナの目は冷たく、未千流の首筋に伸ばした指の爪は狼のそれのように鋭く見えた。
「止めてっ!」
恐怖に捕らわれた未千流がその手を振り払うと、その勢いでアナは壁に頭をぶつけて、ゴンッという嫌な音とともに倒れ込んだ。顔を上げたアナは涙の溜まった目で未千流を睨む。
「何するのよ。あんたが、あたしの力を吸い取ったくせに」
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