第2話 サキュバスの少女

「それで、今の状況がどういうことだか説明して欲しいんですけど…」

 未千流みちるはへそを曲げたアナをテーブルに着かせると、コーヒーの粉と水をコーヒーメーカーにセットした。なんでわたしがなだめ役にならなくちゃいけないのか…。

 スイッチを入れると、コポコポという気持ちのいい音と共にコーヒーの香りが漂ってきた。


「…、サキュバスって知ってる?」


「え? サキュ…バス? 何のこと」

 コーヒーをカップに注ぎながら、未千流はあまりに場違いな単語を耳にして思わず聞き返した。


「サキュバスよ。未千流はね、今そのサキュバスになってるのよ」

 突然のことに未千流はカップを置こうとしていた手を止めた。


「…さっき自分の目を見たでしょ。あの緑色の光はサキュバス光って言うの。あれが目の中で 光っている以上間違いないわ」

 アナは鼻をかむと、コーヒーにミルクと砂糖を入れてゆっくりとかき混ぜた。


「あたしの目にも光があるのは見えるでしょ。未千流もあたしと同じサキュバスになったってことなのよ」

 そんなこと言われて『はいそうですか』と納得出来るわけではないが、確かにアナの目の奥にも、はっきりとした緑色の輝きが見えた。


「未千流は自分でコントロールできていないみたいだからこれからが大変よ、そのまま外に出れば間違いなくトラブルを起こして警察沙汰になるわね」


「ど、どういうこと?」


「自分では気が付いてい無いんでしょうけど、未千流は今男を引き寄せるフェロモンを出しまくってるのよ。さっき換気扇つけさせたのはそのためよ」


 アナはちょっと意地悪そうな目になって未千流を見つめた。

「それにしてもこの部屋、1階でなくてよかったわね。1階だったら換気扇つけたところで前の道を歩いていた男が寄ってくるだけだから大変なことになってたでしょうね」


「フェ、フェロモン…。私が?」

 絶句する未千流。


「普通サキュバスはね、狩りの時以外はフェロモンを出すなんて下品なことはしないわ。でも今の未千流は何も制御出来ないみたいで、そのフェロモンを出しっぱなしなのよ」

 カップを両手に包み込むように持って、コーヒーを啜るアナ。


「何それ、ど、どうすればいいの?」


「急にサキュバス化した人間の話なんて聞いたことないし、ましてや駄々洩れ状態なんて話は聞いたことないから解らないわ」

 アナは首を横に振る。


「ふん! そもそもが自業自得なのよ。あたしのポーション奪って、おまけにエネルギー吸いつくすなんてありえないわ」

 興奮したアナがカップをテーブルに叩きつけたので、コーヒーがテーブルにこぼれ、未千流はその勢いに後ずさる。


「えーっと、その辺が解らないんだけど。何があったの?」


「えっ、覚えて無いわけ? 自分が何したか」

 アナが睨みつけた。


「…うん、気が付いたら私の横にアナが倒れてたところは覚えてるんだけど」

「はぁーっ!? 信じられない。何にも覚えて無いの? 貴重なポーション飲み干して、私の唇からエネルギーまで吸い取ったくせに」

 未千流の反応に更にテンションが上がるアナ。


 ??? ええ!? ポーション? 唇?

 その時、未千流の脳裏にピンク色の唇ゼリーのイメージが浮かび上がった。


「も、もしかして。それって、わたしのファーストキス?」


「は? 未千流何言ってるの? ファーストキスとか、まさかあんた処女なの?」

 処女という言葉を聞いて、未千流は真っ赤になって俯いた。その様子を見たアナはブホッと吹き出し、お腹を抱えて笑い出した。


「ヒャヒャッヒャッヒャ! 信じられない! 処女のサキュバスなんて! 大笑いだわ」

 アナはテーブルに突っ伏すと、テーブルをバンバンと叩きだした。


「そんなに笑わなくたっていいでしょ。処女で悪かったわね。下から苦情が来るから、テーブル叩かないでっ!」

 真っ赤になってプクッと膨れっ面になる未千流。


「…ゴ、ゴメン。でも意表突かれ過ぎて…」


 まだ笑っている、そこまで笑わなくてもいいのに、と拗ねたところで事実は変わらない。

 それよりも問題は未千流がこれからどうするかという事だ。所かまわず男を襲うことになるんだろうか?そんな光景を想像して、未千流はブルッと大きく身震いをして天を仰いだ。




「それじゃお腹が膨れて少しは元気が出たから男を狩りに行くわ。未千流も付いてくるのよ」

 アナが急に立ち上がるが、未千流は急な話の展開に戸惑う。


「狩りって、どういうこと?」


 アナは人差し指を立て、その指先を回しながら子供を諭すような口調になった。

「サキュバスはね、ご飯だけじゃ生きていけないのよ。男の精魂が無いとダメなのはもうわかってるでしょ。あたしのエネルギーは今ほぼゼロ。未千流が全部吸い取っちゃったんだから。そういう事で責任取って手伝ってもらうわよ」


「男を狩るなんて! そんなこと急に言われても…」

 未千流の頭は真っ白になった。


「何言ってるの、未千流に狩りをしろって言ってるわけじゃないんだから。あたしが狩りをするの! でも今のあたし一人じゃ狩りは出来ないから手伝ってもらうのよ。別に難しい事じゃないわ。未千流は道端で立っていればいいだけ。簡単なことよ」


 そんなこと言われても無理な物は無理!

 未千流は自分の目の前で、アナが男を襲っている光景を想像して真っ赤になる。そんなところに立ち会いたくなんてない。


 アナはそんな未千流の反応を面白がっていた。

「未千流、あなた何か勘違いしてるでしょ。男を狩るっていうのは精魂エネルギーを吸い取るだけで、交合なんてしないわよ。なんで襲う側が犯されなくちゃいけないのよ。そんな面倒くさいことするわけないでしょ」


 交合、犯す! アナの口から出る言葉がストレート過ぎて未千流の胸に突き刺さる。


「サキュバスの狩りはね、フェロモンを濃い目に出して、目を付けた男を誘い出すの。フェロモンで性欲バカになった男が抵抗出来なくなったところで精魂を吸い出すだけよ」


 性欲バカとは…。しかし簡単に吸い出すって言ってるけど、アレをしゃぶるってこと? 目の前にいるこのアナが男のものを咥えて…、考えるのはやめよう。


「…そうよ、それで終わり。ただし、人目に付くとまずいから場所選びは慎重にするの。それと、狩り終わった後の男の記憶を消しておかないと問題が起きるから、後処理が大切なのよ」


 アナは、あっけらかんとしている。そこはサキュバスなんだからそういう物なんだろう。


「記憶って、消せるの?」

「まあ、やり方はあるんだけど。そこはまだ内緒かな」

 アナはニヤリと意味深な表情を浮かべた。


「とにかくね、今のあたしは未千流のせいで狩りに使えるほどのフェロモンが出せないのよ。だから未千流を連れて行って、男を誘ってもらうわけ。後はあたしがやるから心配はいらないわ」


 心配しかないじゃない! と思ったが拒否権は無さそうだった。




 時刻は夜中の3時過ぎ。全く人通りの無い道を、アナは黒く目立たないダウンコートに身を包んで前を歩いていく。コートの下から出ている足は網タイツに黒いエナメルのピンヒール。

 後ろを付いていく未千流はオーバーオールの上に赤いダウンジャケット。身長は未千流の方が5㎝ばかり高いだろうか。ジャケットの色のせいでどう見ても未千流の方が目立っている。


 とても寒い! 未千流はポケットの中の使い捨てカイロを握りしめる。

 駅に向かって5分程歩くと、少しは人を見かけるようになった。アナは周りの状況を確認してから、横道に未千流を誘導した。線路沿いの太い道から逸れた、街灯が疎らな通りである。


「見て、あの男かなり美味しそうよ」


 アナが示す方向を見ると、ビジネスマンらしき男が線路沿いの道をこちらに向かって歩いて来るのが目に入った。この近くには深夜営業の飲み屋も多い。そこの店で飲んできた帰りなのだろうか、やや足元がふらついている。

 しかしアナが言う、おいしそうの意味は全く理解できない。


「念のために聞くけど、あの男知り合いってことは無いわよね」

 首を横に振る未千流。


「なら大丈夫ね。あたしはこの路地で待ってるから、未千流はあの男の方にまっ直ぐ進んでね。追い風だから多分2、30メートルくらいで男が注意を向けてくるわ。そうしたら距離を保ったままで、この路地まで連れてきて。急に走り出したりとかしない筈だけど、距離には気を付けてね」


 簡単に言ってくれる、とは思ったが、ここまで来て逃げるわけにもいかない。

 未千流は緊張しながら足音を忍ばせて男の方に向かって進んだ。後ろを振り返ると、アナが笑顔で小さく手を振っていた。


 こんな時間では、線路の上を電車が通る事も無いのだろう。遠くに走る車の音だけが小さく聞こえ、その中に不安定な男の足音と息遣いが混じる。

 男が街灯の無いところに入ると、暗闇の中に溶け込んでしまう。次に街灯の下に現れた時の男の目元には光が入り、口元がいやらしい表情に歪んでいた。


「あれ、きみぃ。こんな夜中に一人で歩いてたら危ないよ」

 ねっとりとした囁き声に鳥肌が立った。


 未千流は男が自分に向かって来るのを確認してから引き返す。冷や汗と共にフェロモンが噴出しているのを自覚して早足になった。

 そうだ、引き離してはいけないんだった。そう思い直して振り向くと、男は早足に未千流の方に迫ってきていた。

 ヒャッ、と声にならない声を出し、思わず早足になるがもう止まれない。


 未千流は打ち合わせ通りに路地に飛び込み、アナの姿を探した。が、アナの姿はどこにも見当たらない。路地の中には暗めの街灯が数本と、各家の門灯があるだけ。見通しは悪い。

 未千流は男に追いつかれる恐怖心を抑えて暗い路地を小走りに走った。そんな未千流の前に住宅の門が立ちはだかる。路地は行き止まりだった。


「嵌められたのかも」

 そんな言葉が頭をよぎり、心の底からパニックが湧き上がるのを感じる。慌てて周りを見回すが、脇道などは見当たらない。この際家の庭を横切ってでも…。そう思って未千流は目の前にある家の門に手を掛け、後ろを振り返った。


 その瞬間、男の後ろから黒い影が近寄るのが目に入った。その影が男に接触した瞬間、男は固まって動かなくなり、やがてひざを折るように静かに崩れ落ちる。


 雲が切れて月明かりが洩れ、地面に倒れている男の姿を浮かび上がらせた。その横にピンク色の髪の少女がゆらりと立ち上がる。


「アナなの?」

 未千流が震える声で確認すると、少女は緑色に輝く瞳で未千流を見てニヤリと笑った。

 背中に黒いコウモリの翼が広がったかと思うと、次の瞬間少女の身体は空中に浮き上がり、ふわりと未千流の前に降り立った。


「終わったわよ」

 目の前にはピンクの髪に、黒いコウモリの翼という出で立ちのアナが立っていた。

「終わった、…の?」

 繰り返す未千流の手を、アナが取って立ち上がらせる。


「ほら、さっさと行くわよ。ちょっとは怖かったのかしら?」

「怖かったわよぉ! アナどこにも見えないし、ダメかと思ったわ」

 涙目になって訴える未千流。


「あれ、ごめんなさい。普通にうまく行ったつもりだったんだけど。ああ、でもあの男が目を覚ます前にさっさと処理しておかないと…」


 アナはコウモリの翼を広げて男のところへ戻って行く。未千流はその時になって初めてアナの黒い尻尾に気が付いた。アナはその黒い尻尾を揺らしていたかと思うと、ピンと伸ばして男の腹に差し込んだ。…ように見えた。

 ブツッという痛そうな音が聞こえ、その瞬間男の身体がビクッと動いたような気がする。


 アナは男の脇に手を入れて立ち上がらせると、スーツの埃をパンパンと軽く払い落とした。そして落ちていたビジネスバックを拾い上げて男の手に持たせる。

「ハイお疲れさま、今日はよく眠って疲れを取りなさいね」


 アナに背中を押された男は、しっかりとした足取りで何事も無かったかのように元来た道を戻って行く。


 あっけにとられている未千流の所にアナが戻って楽しそうに笑った。

「あれで、今狩られたことの記憶はもう無くなっているわ。酔いも醒めてすっきりして元気に明日の仕事に励めると思うわよ」

 未千流はそう説明するアナの左右に揺れている尻尾から、しばらく目を離すことが出来なかった。



「さて、急いで帰りましょ。未千流はあたしのコート持ってて」

 アナは自分のコートを未千流の手に押し付け、後ろに回ったかと思うと、さっと未千流を抱きかかえた。


「えっ、何?」

 未千流が呆気に取られていると、アナは背中の黒い翼を広げて空に飛び上がった。あっという間に地面が遠ざかる。


「やめて、降ろして…」

 未千流は悲鳴を上げてじたばたするも、アナの力は想像以上に強かった。


「未千流、暴れると落ちるわよ。怖かったら眼ぇつむってなさい!」

 未千流は言われた通りにぎゅっと眼をつむるが、横を通り抜けて行く風の速さに身体を固くする。


 ふっと、身体の向きが変わったので、未千流は慌てて眼を開けた。落下する自分を想像したのだが、未千流はどこかのベランダに立たされていた。


「はい、着いたわ。中に入りましょ」

 アナはベランダのサッシを開いて部屋に入る。

 未千流が周りを見回すと、そこは3階にある自分の部屋のベランダだった。振り返ると、夜空が少し白んできている。


「太陽出たら飛べなくなるから、ぎりぎりだったのよ」

 アナはそう説明したが、未千流は納得できない。

 確かに今もフェロモンが出続けていることを考えれば、アナの行動は正しかったのだろう。でも説明位してくれても… 物事には心の準備というものが必要なのだから。

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