第5話

魔王城は、想像を絶するほど巨大だった。

禍々しい紫色の雷雲が渦巻く空を、突き刺すようにそびえ立つ、黒曜石の塔。

俺は、転移魔術陣を使って、城の入り口まで一瞬で移動させられた。

(……便利だけど、心臓に悪い)

前世の満員電車とは、また違った種類のストレスだ。

城内は、不気味なほどに静まり返っていた。

重厚な扉が、音もなく開く。

俺を案内するのは、無表情なメイド服の魔族だ。

長い廊下を、ひたすら歩く。

壁にかけられたタペストリーには、魔王軍の輝かしい(?)歴史が描かれているようだが、俺の目には、ただの残業自慢(武勇伝)にしか見えなかった。

「……こちらでお待ちください。ゼノン様は、まもなくお見えになります」

メイドは、そう言うと、一つの巨大な扉の前で足を止めた。

「謁見の間、か……」

いよいよだ。

俺は、カサカサに乾いた喉を潤すように、唾を飲み込んだ。

重い扉が、再び音もなく開かれる。

中に通された俺は、思わず息を呑んだ。

そこは、だだっ広い「待合室」のような空間だった。

無駄に豪華な調度品が、これまた無駄に広い空間に、ポツポツと置かれている。

そして、そこには、先客がいた。

「……チッ。遅いぞ、ヴァイス。魔王様を待たせるとは、いい度胸だ」

不機嫌そうな声。

部屋の中央で、腕組みをして仁王立ちしている、筋骨隆々の大男。

燃えるような赤い鱗に覆われた、竜人族。

第一軍団長、アグニだ。

(うわあ……一番面倒なタイプがいた)

脳筋。精神論者。旧体制の象徴。

俺が、前世で最も苦手とした「体育会系上司」そのものだ。

「これは、アグニ軍団長。ご苦労様です」

俺は、当たり障りのない挨拶を返した。

「ふん。貴様と話すことなどない。だが、これだけは言っておく」

アグニが、地響きのような足音を立てて、俺に詰め寄ってきた。

その巨体から放たれる圧が、物理的に重い。

「貴様の『勝利』とやら、反吐が出る。魔族の誇りを忘れた、卑怯者の戦法だ」

「……卑怯、ですか。俺は、任務を遂行しただけですが」

「任務だと? 砦に引きこもり、敵の飯を断つ! そんなものが、戦いと呼べるか! 戦いとは、力と力がぶつかり合う、神聖なものだ!」

「神聖……ですか。俺には、ただの非効率な殴り合いにしか見えませんが」

「なっ……! 貴様あっ!」

アグニの顔が、怒りで真っ赤に染まる。

その拳に、炎が宿り始めた。

(まずい、こいつ、ここで殴りかかってくる気か?)

「あらあら。相変わらず、頭に血が上りやすいのね、アグニ様は」

その時、間の抜けたような、しかし妙に響く声が割って入った。

部屋の隅の、豪華なソファ。

そこに、一人の女が寝そべっていた。

サキュバス族の、第二軍団長、リリスだ。

「リリス! 貴様、見ていたのか!」

「ええ、最初から。ヴァイス参謀、ごきげんよう。ハイランド砦の『完勝』、おめでとう」

リリスは、優雅に脚を組み替えながら、妖艶な笑みを俺に向けた。

「……どうも。リリス軍団長も、ご機嫌麗しいようで」

こいつも、アグニとは違う種類の「面倒な」相手だ。

勘が鋭く、人の思考の裏を読もうとする。

「完勝、だと? リリス、貴様もそいつを認めるのか!」

アグニが、今度はリリスに噛みついた。

「認めるも何も、事実でしょう? ヴァイス参謀は、第三軍団の死者ゼロで、あの難攻不落の砦を落とした。違う?」

「ぐっ……! そ、それは、結果だけを見れば……!」

「結果こそが全てよ。違うかしら、ヴァイス参謀?」

リリスの目が、探るように俺を射抜く。

「……おっしゃる通りです。プロセス(過程)がどうであれ、結果(戦果)が出なければ意味がない」

「プロセス……? けっか……? また貴様の分からん言葉を!」

アグニが苛立ちを募らせる。

「ふふっ。相変わらずね」

リリスは、クスクスと笑う。

「アグニ様。あなたは、ヴァイス参謀の『本当の恐ろしさ』が、何も分かっていないのよ」

「なに?」

「彼は、ただ砦を落としたんじゃないわ。砦の機能、物資、そして兵士(労働力)まで、全て無傷で『接収』したのよ」

「……それが、どうしたというんだ」

「分からない? 彼は『戦争』を、『略奪』や『破壊』だと思っていないの」

リリスは、ソファからゆっくりと立ち上がった。

そして、俺の目の前まで来ると、俺の胸を人差し指でツン、と突いた。

「あなたは、戦争を『経営』だと思っている。そうでしょう?」

「……!」

ドキリとした。

こいつ、どこまで……。

「敵の資産(アセット)を、いかに低コストで奪い、自軍の利益(プロフィット)を最大化するか。あなたは、それしか考えていない」

「な……!」

アグニが絶句している。

「兵士の命を『リソース』と呼び、士気(モチベーション)を『インセンティブ(報酬)』で管理する。……違うかしら?」

「……解釈は、お任せします」

俺は、冷や汗を悟られないよう、ポーカーフェイスを保った。

「ふふっ、怖い。本当に、あなたって『魔族』らしいわ。その冷徹なまでの合理主義。私は、嫌いじゃないわよ」

リリスが、うっとりとした表情で俺を見つめてくる。

……こいつの勘違いも、大概、度が過ぎている。

「ま、待て! 『けいえい』? 『こすと』? わけのわからん!」

アグニが混乱している。

その時だった。

「―――静かに」

幼い、少女の声が響いた。

その瞬間、アグニの怒気も、リリスの妖艶な空気も、全てが凍りついた。

部屋の奥、今まで誰もいなかったはずの玉座に、一人の少女が座っていた。

黒いドレスをまとった、幼い少女。

魔王ゼノン。

その姿に似合わない、絶対的な圧。

「「「ははっ!!」」」

アグニとリリスが、即座に膝をついた。

俺も慌てて、同じようにひざまずく。

「……顔を上げなさい」

促され、恐る恐る顔を上げる。

魔王ゼノンは、玉座の上で小さな足をぶらぶらさせながら、真っ直ぐに俺を見ていた。

その赤い瞳は、底なしの深淵のようだった。

「……ヴァイス。第三軍団参謀」

「は、はい!」

「面白いことを、してくれているそうね」

ゾクリ、と背筋が凍った。

「『残業の禁止』『有給休暇の導入』『KPIによる管理』。そして、『死者ゼロでの砦攻略』」

魔王は、楽しそうに、俺の「改革」を羅列していく。

「……はい。全ては、魔王ゼノ

ン様の軍の、戦闘力強化と、効率化のため……」

「効率化、ね」

魔王ゼノンは、玉座からひらりと飛び降りた。

そして、ゆっくりと、俺の目の前まで歩いてくる。

「アグニは、お前の戦い方を『卑怯だ』と言ったわ」

「……」

「リリスは、お前のやり方を『経営だ』と言ったわ」

「……」

「ヴァイス。お前は、どう思う?」

試されている。

ここで答えを間違えれば、即、死だ。

俺は、前世で鍛え抜かれた「上司への模範解答」スキルを、全力で起動させた。

「……全ては、ゼノン様の『勝利』という結果を、最小のコストで達成するため、です」

「コスト」

「はい。兵士の命、時間、物資。これら全てが『コスト』です。無駄なコストを徹底的に排除し、最大の戦果(リターン)を得る。それが、私の職務(ミッション)だと心得ております」

俺は、もうヤケクソだった。

どうせ、何を言っても勘違いされるんだ。

ならば、 corporate jargon(ビジネス用語)を、そのままぶつけてやるまでだ。

玉座の間が、静まり返った。

アグニは「こいつ、何を言ってるんだ」という顔をしている。

リリスは「まさか、そこまでとは」と息を呑んでいる。

魔王ゼノンは。

「…………」

無表情で、俺をじっと見つめている。

やがて。

「……くっ」

魔王ゼノンの肩が、小さく震え始めた。

「……くくくっ……。あ、あはははは!」

玉座の間に、少女の甲高い笑い声が響き渡った。

「あーっはっはっは! 『コスト』! 『リターン』! 『ミッション』! そうか、そうか!」

ゼノンは、腹を抱えて笑い転げている。

「お、面白い! お前、最高に面白いわ、ヴァイス!」

「は、はあ……」

「アグニ! リリス!」

「「はっ!」」

「聞いた? こいつの言葉。こいつ、戦争を『仕事(タスク)』だと言ったわ!」

ゼノンは、涙を浮かべながら俺を指差す。

「兵士の命も、誇りも、ただの『コスト』。勝利すらも『リターン』。……こんなにも、悪魔的で、冷酷な思考。私、初めて聞いたわ!」

「え?」

(いや、違う、そういう意味じゃ……)

「気に入ったわ! ヴァイス!」

魔王ゼノンは、満面の笑みで、俺に宣告した。

「お前のその『改革』、気に入ったわ! だから、褒美をあげる」

「ほ、褒美、ですか……?」

(まさか、休暇か? 臨時ボーナスか!?)

「そうよ。……ヴァイス。お前を、『全軍・業務改革・最高顧問』に任命するわ」

「…………はい?」

「アグニの第一軍団も、リリスの第二軍団も……魔王軍の全てを、お前のその『効率的』なやり方で、作り変えなさい!」

「え……? えええええええええ!?」

「もちろん、第三軍団の参謀も兼任でね。ああ、忙しくなるわね。でも、お前ならできるわよね?」

「あ、あの、ゼノン様……! そ、それは……!」

「これは決定よ。私の直轄の仕事。光栄に思いなさい」

魔王ゼノンは、無邪気に笑った。

その笑顔は、俺にとって、どんな悪魔の形相よりも恐ろしかった。

(全軍の……改革……? 兼任……? 魔王直轄……?)

俺の脳裏に、前世の記憶が蘇る。

『佐藤くん、このプロジェクトも、君に任せるよ。もちろん、今の仕事と兼任でね。社長直轄だ。光栄だろ?』

「……ああああああああ…………」

俺の、定時退社と健康的な生活への道が。

今、完全に、断たれた。

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