第10話 安全の敗北
金曜の夕方。
こっちはいつもどおり。
「今日買う人ー?」
「はーい」「はーい」「私は今日は“見るだけ”で」
ホワイトボードにはもう定番の5行があって、下に今日の日付と
「2〜3%は動きます(想定)」って書いてある。
窓の外はオレンジ。平和。
そこに、珍しく固定電話が鳴った。社長がひょいっと顔を出す。
「凛くん、そっちに回していい?」
「御堂さんですか?」
「そう」
受話器を取る。向こうはちょっとだけざらついた声だった。
「……長谷川か」
「はい」
「今日の午後のやつ見たか」
「“書式を全社標準にします”のやつですか」
「それ。それな。あれ、俺の名前で回った」
「見ました」
「で、“この書式になった経緯を説明してください”って言われた」
「はい」
「説明したら、“じゃあ最初からそうすればよかったのに”って言われた」
「そうですね」
「……そうですね、じゃねえよ」
向こうで、たぶん肩で笑った。悔しいときの笑い方だ。
「俺さ、“安全です”って言ってるだけでここまで来たんだよ。
“安全っぽいのを選んでます”って顔してるだけでな。
それで部下もお客も“まあ課長が言うなら”って動いてくれてたんだよ」
「はい」
「でも今日、若いのに言われた。
“御堂さん、ほんとは株あんまり分からなかったんですね”って」
「……」
「“でもこの紙にしたら分かりました”って。
“最初に2〜3%は動きますって書いてあるだけで安心でした”って。
……それ、俺が今まで言えなかったやつなんだよ」
少しだけ間が空いた。
受話器の向こうで、空調の音が入る。
「だから、今日だけは言っとく。
“最初からお前のやり方でやればよかった”って」
「了解しました。録音しておきますか」
「すんな。殺すぞ」
そこはまだ悪党のままだった。よし。
「ただひとつ条件がある」
「はい」
「今後、うちで新しい銘柄をやるときは、お前のとこで一回見ろ。
“何を見た”“いくらまで”“どこでやめる”“いつ見る”“2〜3%は動きます”
この5つがあるかどうかだけ見ろ。
中身は俺らでやる。お前の名前は出さん。
でも見ないとまた昔に戻る」
「……つまり“裏で監修しろ”ってことですね」
「そう。表では俺らが“安全にやってます”って顔する。
裏でお前が“動きますって書け”って言う。
それでやっと回る」
「いいですよ。ただし一個だけ追加します」
「なんだよまた」
「“今回ここでやめます”も、月に一回は必ず書いてください。
やめる文が流れないと、“安全です”がまた増えます」
「はぁ……分かったよ」
御堂が、はっきり聞こえるくらい大きく息を吐いた。
「お前、ほんとに俺に一番きついことだけ言うな」
「言わないとまたクビにされますから」
「もうクビにはしねえよ。クビにしたってこうやって戻ってくんだからよ」
そこでやっと、ほんのちょっとだけ弱い声になった。
「……長谷川」
「はい」
「お前、こういうの……“誰でもできるようにするやつ”……
なんでそんなにすぐ出てくんだよ」
「元々、あなたの会社でも書いていたじゃないですか? 」
「……ああ。そうだな」
御堂はそこで黙った。
たぶん“株ほとんど分からなかった側”に自分が入ってるって、やっと言葉で飲み込んだんだと思う。
「じゃ、頼むわ。もう恥かきたくねえから」
「了解です。恥かかないように、最初に“動きます”って書きましょう」
「うるせえ。じゃあな」
ぷつ。
◇
受話器を置くと、3人がすでにこっちを見ていた。
聞いてたな、こいつら。
「どうでした?」
「“最初からそれでやればよかった”って言ってました」
「ざまぁですね」
ノノがニコニコ。
千紗も言う。
「でも、“完全に悪い人”のまま終わらないでよかったですね」
「そう。“安全です”って言ってたのは嘘つきたかったんじゃなくて、
“知らないのバレたくなかった”だけって分かったから」
真白がホワイトボードに今日の分を足す。
今日の記録
・向こうの会社も「買う前に書く」を全社標準にした
・やめる文も月1で流す
・“安全です”だけで終わらせない
「これで終わりだね」
「終わりです」
窓の外はすっかり夕方。
元いた会社のモニターにも、きっと同じような4行が映ってる。
“何を見たか/いくらか/どこでやめるか/いつ見るか”。
その下に、小さく
今回は2〜3%動きました。想定内です。
って書いてあるはずだ。
“安全です”って一言で済ませてた人が、いまは一番長く書いてる。
それくらいのざまぁが、ちょうどいい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます