告白

 ヤヨイの問いかけは、夕暮れの街の空気より冷たく、しかし不思議と刺すような鋭さはなかった。ただ事実を確認するためだけの、静かな声。


「ミケちゃん……あなたの“いとこ”じゃない。それだけは確かよね?」


 私は喉が詰まり、何度も言葉を飲み込んだ。息をするたび、胃の奥がきりきりと痛む。なんて言おうか、出来るだけ面倒じゃない丸く収まる何かを探しながら、私はしどろもどろに返答する。


「……ち、違うのは……違うんですけど……」


「じゃあ、あの子は何?」


「…………」


 嘘はもう、つけなかった。嘘が思いつけなかったからじゃない。ヤヨイさんの問いは私へ心配してるように感じたから。その証拠に、ヤヨイは私の様子を黙って見ていた。責めるでもなく、追い詰めるでもなく。ただ“待っている”。少しその静けさが怖かったが、それでも私に寄り添おうとしているのは確かな雰囲気だった。

 言わないと、もう前に進めない気がした。私は深呼吸を一度して──そしてすべてを吐き出した。


「あの子は……ミケは、猫だったんです」


 言葉にした瞬間、胃の痛みがほんの少しだけ軽くなった。もちろん、そんな突拍子もない話を信じてもらえるとは思っていない。ヤヨイは、驚いた表情を……しなかった。眉すら動かず、ただ小さくまばたきをしただけ。


「“だった”?」


「はい。一昨日……その……私の目の前で、急に人間になって……」


 言いながら、自分でも頭がおかしいとしか思えない。現実味のない話をしているのに、ヤヨイは遮らず最後まで聞いてくれた。それから私は今に至るまでの過程をすべて話した。謎の白衣の人の事、願いの叶う薬の事、昨日の本当に起きた事。

 自分でも信じられない話を、途切れ途切れに、しかし全部吐き出してしまった。途中でヤヨイさんが呆れた顔をするか、距離を置くような素振りを見せるか──覚悟していたが、そんな気配は最後まで一度もなかった。ただ静かに、真っ直ぐ聞いてくれていた。

 話を全て言い終わる頃にはもう私達の住むアパート前にまで来てしまっていた。


 アパートの前に立つと、夜風がひんやりと肌を撫でる。街灯の明かりがヤヨイさんの横顔を照らし、その瞳の奥にわずかな思考の揺らぎを映した。


「……なるほど。大体わかったわ」


 静かな声だった。常識ではありえない話をしているのに、“否定”も“驚愕”もない。ただ事実を事実として整理している声。


「……信じてくれるんですか?」


 気づけば、ほとんど祈るような声になっていた。“ここまで全部話してしまった以上、信じてほしい”──そんな弱さが丸出しだった。

 ヤヨイはふっと小さく息を吐き、私の目を見た。


「正直に言うと、普通の尺度では信じられないわ。でも……」


 言葉を切って、ほんのわずかに肩をすくめる。


「あの子を実際に見てしまったのもあるのかもしれないけど。私は、あなたが嘘をついているようには見えなかった」


 胸の奥がじんと熱くなった。信じてもらえないと思っていた。

 信じてもらえるような話じゃないことも分かっていた。

 それでも──ヤヨイさんは私を“嘘をつく人間として扱わなかった”。


「……ありがとうございます……」


 うっかり泣きそうになりながら頭を下げかけた瞬間、


「でもね、倉持さん」


 呼び止められる。その声音は決して冷たいわけではないのに、背筋が自然と伸びるような強さを帯びていた。


「信じるかどうかより……大事なのは“これからどうするか”よ」


「……これから?」


「ええ。ミケちゃんが“人間の姿で存在している”時点で、あなた一人じゃ無理があるわ。生活面でも、隠す面でも」


「…………」


 反論できなかった。むしろ、そう言ってくれるのを待っていた自分すらいた。


「私だって事情が分かれば我慢くらいするわよ。だけど、私は良くても他のアパートの住人全員を説得させたり受け入れてもらえるとは思わない。だから言ってるの

『あなた一人じゃ無理だ』って」


「……」


「でも、ミケちゃんは悪い子じゃない。むしろ……とても素直で、あなたが大好きな子ね」


「えっ……」


「今日、あなたの家の前で抱きつかれたときの顔……本当に嬉しそうだったわよ。『つむぎが帰ってきたと思った』って。よっぽど嬉しかったのかドアを蹴破る勢いで出てきたのよ」


 くす、とほんの少しだけヤヨイさんは柔らかく笑った。

 その笑顔が綺麗すぎて、私は何も言えなくなる。


「倉持さん。あなたの話が全部本当だとして──ミケちゃんが人間になった原因は“薬”。でも、その薬が何なのか、誰が作ったのか、なぜミケに効いたのか……分からないことばかりね」


「……はい」


「だったら、まずは“現状を安定させること”。

 ミケちゃんを、人間としてどう扱うか。どう生活させるか。隠すのか、隠さないのか。何より──あなたの身体がもつようにしないと」


「……そんな、大事みたいに……」


「大事よ。あなたが倒れたら、あの子はもっと困るわ。

 それに倒れるまで抱え込むのは、ただの無謀よ。優しさとは違うわ」


 その言葉は、胸の奥の痛いところを静かに突いた。でも、嫌な痛さじゃなかった。

“正しいことを言われた”と自覚させられる、苦くて優しい痛み。私は目を伏せ、靴のつま先を見つめながら、小さく息を吐く。


「……そう、ですよね。分かってはいるんですけど……なんか、全部いっぱいいっぱいで……」


「分かってるわ。だから──無理をやめなさいって言ってるの。ミケちゃんに汚された部屋の片付けがしんどかったりするのなら、私が避難所くらいにはなるわよ。

 私ね、見知らぬ人でも、嫌いな人でも弱ってたり困ってたりしたらベストを尽くしたいの。あなたも例外じゃないし見知らぬ人でも嫌いな人でもないから」


 ヤヨイさんの声はいつもの無表情に似合わず、どこか温度を含んでいた。私は目の奥が熱くなってしまうがなんとか熱いものを抑え込む。確かにミケが来てから癒やされたこともあった、だけど言う事を聞いてくれなかったり、部屋を荒らされてたりでだいぶ疲れた。新しい生活に体が慣れてなかったのもあっただろうが、それでもこの数日で私の体調は崩れていた。

 するとヤヨイさんが口を開く。


「倉持さん。今日は、ここまでにしましょう」


「え……?」


「あなた、もう限界よ。話してる間もずっと顔色が悪いもの。

 まずは薬飲んで休むこと。ミケちゃんのことは……そうね、あなたが落ち着いてからでいいわ」


「……はい」


 言われて初めて、自分の肩が震えていることに気づいた。

 身体も心も、張り詰めていた糸が切れそうだった。


「それじゃあ……今日はここで。ゆっくり休んで。辛かったらいつでも頼っていいから。一昨日知り合ったばかりで信用できないかもだけど」


 そう言い残すと、ヤヨイさんは軽く手を挙げて、自分の部屋へ歩き出した。

 その後ろ姿は、いつも通り冷静で、揺れているようには見えなかった。


 でも──ほんの一瞬だけ見えた横顔は、どこか考え込んでるように思えた。

 

————

 

そして私も家に帰宅すると、いつものように――


「つむぎ!おかえりー!!」


という爆発音のような歓迎が出迎えてくれた。ドアを開けた瞬間、ふわりと温かい空気と、どこか獣っぽい匂いが鼻をくすぐる。照明に照らされたリビングは、クッションは散らばり、毛布は戦場の旗のように床に垂れ、観葉植物は斜めからこちらを睨んでいる。


ミケは中央で得意げに胸を張り、尻尾を高速で振りながら私に一直線に飛びついてきた。勢いよく抱きつかれ、私は思わず後ろに転がりそうになる。


「つむぎー!おそかったね!いっぱいあそんだの!」


その瞳は、まだあどけなさが残る純度の高い無邪気さで光っている。怒る隙はない。だが、現実は目の前の散らかり具合と、ヤヨイさんに言われた言葉――「あなた一人じゃ無理よ」が微かに重く胸にのしかかっていた。


「ちょっと待って、ミケ。まずは手を洗って、部屋を片付けてからごはんね」


「はーい!」


ミケはあっという間に台所方向へぴよんと跳ねていった。人間の身体なのに、動きはやっぱり猫のそれだ。ふにゃりと柔らかい動きに、思わず肩の力が抜ける。


私は靴を脱ぎながら、まずは散らかったものをざっと片付けようと考えた。とはいえ全てを一人で片付ける気力はなく、ミケに「手伝って」と言いかけると、彼女は早くもお皿を咥えて戻ってきた。


「つむぎ、ごはん!」


「ご飯の前に片付けって言ったでしょ」


「そうだった!!片付ける!!」


 それからお皿洗いは私の担当で、ミケは布巾をちょこんと持って「拭くまね」をしてくれる。布巾を一生懸命握る手つきは可愛らしいが、力が足りずに床に落としてばかりだ。こぼれた水を拭こうとすると、彼女は得意げに私の足もとでゴロンと横になり、しっぽで私のズボンをちょいちょいとつつく。


「つむぎ、つかれた?」


「ううん、大丈夫……」


私はそう言いながらも、胸の奥がチクチクするのを感じていた。ヤヨイさんの言っていた「無理をやめなさい」という言葉が頭の隅を離れない。毎朝「お留守番」を教え、帰ればまた散らかっている。すれ違う疲労がじわじわと溜まっていくのがなんとなく予想がついた


 とはいえ、いざ目の前の存在を見ると怒ろうにも怒れなかった。

 それから片付けが終わってから食事の用意を終え食事を始める。ミケの食べ方はがさつだけれど、食べ終わると満足そうに喉を鳴らしている。その仕草は、私の中の何かをほぐしてくれる。


 使い終わった食器の片付けが終わるとミケは満足そうにソファに飛び乗り、私の膝の上に首を載せて目を細める。


「つむぎ、すきだよー」


「そうだね、私もミケの事好きだよー」


「うにゃー、テキトーにいわないで!!」


「ごめんってば」


 私がそう言うと、ミケは不服そうな顔をして首を傾けてにこちらを見上げた。

 その瞬間、携帯がポンとテーブルの上で震えた。画面に表示されたのは職場のグループチャット。内容は簡潔だった。「急遽、明日朝一で来れる人いる? 資料まとめが必要になったので」


 心のなかでため息がでる。今日のやることが終わって一息つけると思っていたのに、また仕事の波が押し寄せてくる。ミケは何事かと顔を上げ、私の表情を真剣に覗き込む。


「つむぎ、だいじょうぶ? しごと、またたいへん?」


「うん、ちょっとそうかも……」


 その労いの言葉は素直に嬉しかった。

 やっぱりミケの事は嫌いになれない。可愛くてどんくさくて暴れん坊で、嫌なこともあるけど楽しい面があるのは確かだった。


「ありがとう、ミケ。でもね、つむぎも仕事があるから、明日はちゃんとお留守番するんだよ」


「わかったー。つむぎ、がんばってー!」


ミケは再び得意げに尻尾を振った。その姿を見ながら、私はテーブルに置かれた薬の箱と、机の上に積み上がった郵便物に視線を移す。郵便物にはコンビニ支払いのリマインダーが混ざっていた。小さな数字と期日が赤く表示されている。


(……あ、これも片付けなきゃ)


軽い焦燥感が胸を刺す。今日のように楽しい時間があったとしても、現実は確実に積み重なる。笑いと残務の往復。それが、私の今の生活だ。


ミケはいつのまにか眠たげに目を閉じている。ふわふわの耳が微かに動き、呼吸が整っていく。私は彼女の頭をそっと撫でながら、ふと窓の外に目をやる。街灯の明かりが、静かに夜を染めている。


「明日も、頑張ろうかね」


そう呟くと、返事は小さな寝息だけだった。部屋にはまだ片付けるものがたくさんある。仕事の連絡も来るだろう。だけど、リビングに溢れる笑いの余韻と、膝の上で安心しているミケの暖かさが、ほんの少しだけ私の肩の力を抜かせてくれる。


(ヤヨイさん、言ってた通りだな。誰かに頼ること――それがまず最初の一歩なんだ)


深呼吸を一つして、私は立ち上がった。明日のためにどれだけ片付けられるか小さな計画を立てながら、私は洗い物を終え、散らかったものをまとめていく。わちゃわちゃした一日が、静かに収束していく。


ただ、心の片隅には小さな不安が残ったままだった。携帯の通知、支払いの期日、そして「無理をやめなさい」と言った隣人の言葉。夜が更けるほどに、それらは静かに、しかし確実に重さを増していくのを感じるのだった————

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