第1話 予期せぬ再会
近くの礼拝堂の鐘が鳴り始めた。奏でている曲は、この大学の校歌らしい。教会で歌われるクリスマス・キャロルを思い起こさせる、滑らかで瞑想的な曲調。この曲が鳴り終えると、間もなく、低く、単調的な鐘の音が響き始めた。時計の長針が天辺を指したということだ。それは授業の終わりの合図でもあった。
曲が鳴り出した時点で、既に荷物を纏め始めていた大半の生徒たちは、教授が話を締めくくると同時に、一斉に席を立った。椅子の足裏が床に擦れる音が、騒がしく教室中に反響する。
授業がしっかり終了するまで大人しく待っていたマデラインは、周りとは少し遅れて荷物を纏め、立ち上がった。
教室を後にし、校舎を出ると、マデラインは図書館に向かうことにした。今日の講義はこれで終わりなので、夕食の時間まで課題をしに行こうと思ったのだ。先週は体調不良を理由に休んでしまったので、一週間分の遅れを取り戻さなければならなかった。
図書館へ足を運んでいる途中、後ろから声をかけられた。
「あ、マデライン!」
「ん?」
振り向くと、そこにはマデラインと同じ寮に住んでいるユカリが、笑顔で手を振りながら、走り寄って来るところだった。
「ユカリ!」
マデラインも手を振り返し、ユカリが追い付くのを待った。
「久しぶり! 体調どう? もう大丈夫な感じ?」
「うん、もう大丈夫」
「そっかー、良かったー」
ユカリはホッと胸を撫で下ろした。
「具合悪いからしばらく帰省するって聞いてびっくりしたんだよ。やっぱインフル?」
「うん。ちょっと熱出ちゃって」
「あー、やっぱり。流行ってるもんね」
納得したように頷くと、ユカリは勢いよくマデラインを横から抱きしめた。
「マデライン、元気になって良かった、寂しかったよぉ」
「えー? んふふ、ありがとう。心配かけてごめん」
マデラインも、そっと彼女の背中に手を添える形で抱きしめ返し、照れくさく笑った。ユカリはマデラインと同い年だが、背はマデラインより頭一つ分ほど低く、小柄だ。だからこうしてマデラインが抱きしめると、彼女の体は簡単に腕の中に納まってしまう。
「そういえば、今どこ向かってるとこ?」
二人が腕を解くと、ユカリはふと思い出したように尋ねた。
「図書館。課題やりに」
「そっか。もう今日の授業は全部終わった感じ?」
「うん。そっちは?」
「私はまだもう一限ある」
肩を落とし、大袈裟に溜息をつくユカリの様子に、マデラインは苦笑した。
「あ、そうそう、そういえばさ、マデライン、今日時間ある?」
「え、あるけど、何で?」突然の問いにマデラインは首を傾げた。
「今日の五時に、レンフィールド・ホールの庭でピクニックがあるみたいなんだけど、マデラインも来ないかなーって」
「ピクニック? 何かのイベント?」
「うん、なんかマジシャンズクラブっていうのがあって、そのサークルの歓迎イベントみたい。誰でも参加オーケーだから、せっかくなら行ってみようかなって」
「マジシャンズクラブ?」
「うん。手品とかタロット占いとかやってるみたい。たまにパフォーマンスとかしたり」
「へぇー、面白そう」
「ね。サークルのアカウント教えようか?」
「うん」
ユカリは携帯を取り出し、サークルのSNS アカウントをマデラインに共有した。既にフォロー済みのようだ。マデラインも自分の携帯でアカウントをチェックした。
「私、四時四十五分に授業終わるんだけど、どっかで待ち合わせして一緒に行かない?」
「良いよ。私はずっと図書館にいると思うけど、何処で待ち合わせしたい?」
「あ、じゃあ図書館前で良いよ。五時辺りに待ち合わせで良い?」
「うん、良いよ」
「オッケー」
ユカリは笑顔で頷き、携帯に視線を戻すと、焦ったように目を見開いた。
「あ、ヤバッ、もう行かなきゃ」
「ん? もうすぐ授業?」
「うん、あと十分! しかも北側!」
「ヤバいじゃん。行ってらっしゃい!」
「行ってきまーす!」
子供を学校に送り出す親のように手を振り、マデラインは走り出すユカリの背中を見届けると、再び図書館へ向かった。
ここ、メイフェア・ユニバーシティは、創立百六十年以上の由緒正しい大学だ。キャンパスは広く、マデラインが今いる南側から、ユカリが目指している北側に行くまで、徒歩だとニ十分ほどかかる。猛ダッシュすれば、ギリギリ十分で辿り着けるくらいだろうか。
歴史が長い分、メイフェアには古い建物が多いが、リノベーションによって殆どの内装は一新され、設備も大体整っている。マデラインの寮も、およそ五十年の歴史を持つ。そのせいか、未だにどの部屋も空調が付いていない。代わりにウインドーファンが取り付けられているが、温暖化の進んでいる九月中旬を乗り越えるには、ファン一台では心許なかった。
窓を開け、家から持ってきた小型扇風機があれば、それなりに快適に暮らせたが、湿度が上がるとやはり蒸し暑くなり、勉強をする時はクーラーの効いた図書館に行くのが一番だった。
メイフェア大学のホルムウッド図書館は、六階建ての立派なレンガの建物で、エントランスには白い柱が立っている。中には幾つもの個室があり、プライバシーのある静かな空間で勉強をするには最適だった。マデラインが特に気に入ったのは、ガラス張りの防音室だった。テーブルと、向かい合わせの席がある、ギリギリ四人ほど入れるこじんまりとした部屋。そこでなら、課題に集中しやすい上に、外で勉強している他の学生たちが見える分、気を引き締めることが出来た。
マデラインはホルムウッドに着くと、すぐに防音室へ足を向けた。テーブルが数台並べられているスタディースペースの壁際にある。今年から設置されたものらしく、個室内は綺麗に保たれており、他の学生たちにも人気だ。故に、マデラインは予めその個室を予約しておいた。
しかし、マデラインがスタディースペースに行くと、目当ての個室を誰かが既に使っていることに気づいた。彼女が立っている角度からだと、相手の背中しか見えなかったが、帽子をかぶった長い黒髪の女子学生のようだった。
来るのが少し早かったかと、携帯で時間を確認すると、確かに予約の時刻まで、あと五分あった。それまで待とうと、近くのテーブルに座り、バックパックから読みかけの本を取り出した。高校の友人に勧められ、最近少しずつ読み進めている恋愛小説だ。
物語の大まかなあらすじは、主人公が、学校に転校してきた不思議な雰囲気を持つ男子生徒と出会い、二人が恋に落ちるという至ってシンプルな話だ。
ただ、意外な展開として、その男子生徒の正体は、実はヴァンパイアだったのだ。
この小説は、人間とヴァンパイアの、いわゆる〝禁断の愛〟の物語。
正直、友人には悪いが、今のところマデラインにはこの小説の良さがよく分からなかった。主人公たちがあっという間に恋に落ち、リスクを冒してまで一緒にいようとする様に、あまりリアリティを感じなかった。それに、主人公が好きな男のために、家族や友人を蔑ろにしていくところも、読んでいて気持ちが良いものではなかった。
だが、この物語に没頭できない一番の理由は、ヴァンパイアたちの存在だろう。
思い出してしまうのだ。今年の春に起きた、
本を閉じ、マデラインは溜息を漏らした。よりによって何故このタイミングでこの本を読もうと思ってしまったのだろう。あんな事を経験した後だというのに。いや、あんな事があったからこそ、逆に興味を引かれてしまったのかもしれない。
マデラインはもう一度携帯を確認した。もう予約の時間になっていたが、防音室の方に目を移すと、まださっきの学生が使用しており、そこから動こうとする気配はなかった。仕方ないので、マデラインは立ち上がり、相手に立ち退いて貰うよう頼みに行くことにした。
防音室の傍まで来ると、使用者の姿をより明瞭に捉えることが出来た。彼女は全身黒に身を包んでいた。タートルネックのクロップトップ、レザージャケット、ズボン、レースアップブーツ、かぶっているキャスケットまで、全て黒かった。
女は机の上のパソコンと向き合っているが、別に熱心に勉強をしている訳ではなく、映画を観ているようだった。それが確認できると、マデラインはあまり罪悪感を感じることなく、ガラス戸を軽く数回叩いた。相手はマデラインに気づくと、一旦映画を停止し、ドアを開けた。
さっきまで帽子のつばに隠れていた顔が、マデラインの榛色の眼にはっきりと映った。透き通った肌の小顔の女性だった。シャープな輪郭の凛とした顔立ちをしており、化粧のせいもあるのか、目力が強いように感じた。
黒ずくめの彼女は何も言わず、夜空色の暗い瞳で、ジッとマデラインを見つめた。こちらが要件を言うのを待っているようだ。その一瞬の静けさに気まずさを感じながらも、マデラインは口を開いた。
「すみません、あの、この部屋、予約してあるんですけど……」
マデラインがそう伝えると、相手は少し驚いた顔で瞬きをした。
「あ、マジ? ここ予約制なんだ」
そう言うと、彼女は案外すんなりと立ち上がり、ショルダーバッグにパソコンを仕舞った。バッグの色も、やはり黒かった。
「悪いね、邪魔して」
「あ、いえ、大丈夫ですよ」
相手の意外なほど素直な反応に肩の力が抜け、マデラインは頬を緩ませながら、相手が部屋から出て行く際にドアを押さえた。
二人が丁度すれ違ったその時、ある匂いがマデラインの鼻を掠め、彼女は息を呑んだ。
身に覚えのある匂いだった。
あの夜の記憶が、脳の奥底から浮上する。
気が付けば、マデラインは振り向いていた。視線が、再び相手のものと交わる。黒ずくめの彼女も、ほぼ同時にこちらを振り返ったのだ。彼女もマデラインと同様、虚を突かれた表情をしていた。
その刹那、まるで時が止まり、心臓だけが動いているような感覚を味わった。
目の前の彼女の姿が、ある人物の面影と重なる。
まさか、そんなはずは……いや、でも……
頭の中に浮かんだ可能性を否定しようとしていると、相手はマデラインの方へ向き直り、一歩踏み出した。
「ああ、なんか見覚えあるなーって思ったら」
彼女の唇が弧を描き、細めた目が、一瞬赤く光ったように見えた。
「マディ、だっけ? 久しぶり」
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