夜に潜む者たち

夜風冴

プロローグ

 心臓の音が早鐘のように、やけに煩く鳴り響き、体中を駆け巡っていた熱が、背中から手先まで冷水を浴びたように、一気に冷えていくのを感じた。


 春の暖かい空気に混ざる、埃やカビと、錆びた金属臭。そして何より、生肉から漂うような、濃い血液の香りが鼻を突く。


 所々砕けた窓から、忌々しいほど白い月明かりが、古びた薄暗い倉庫内に差し込んでいる。汚れで変色し、すり減ったレンガの壁。土埃に覆われたコンクリートの床。それらを照らす光は、零れたインクの如く、真下に広がる不穏な灰汁色によって、無情に汚されていく。


 滑りとした生温かい感触が舌の上に張り付き、噎せ返りそうなほどの鉄の味が広がる。胸が締め付けられ、上手く息が吸えない。吐けない。


 遠くから幾つものエンジン音と、パトカーのサイレンが聞こえてくる。だが、そのことに構っている心の余裕など、全くなかった。


 開いた口から唇を伝って、ポタポタと滴が落ちる。その一粒が、押し倒されている彼女の頬に掛かり、色白の肌を伝い、暗い線となった。


 深く抉られた彼女の肩が、濁った視界に届く。


 ああ……やってしまった……やってしまった……


 思考を停止した頭の中で、その一言だけが延々と繰り返される。


 突然、何か冷たいものが頬に触れ、反射的に肩を強張らせた。それは彼女の手だった。頬に添えられたその手は、雪に浸したかのように凍てついている。鶯茶色に輝く瞳が、真っ直ぐこちらを見据えていた。


 「落ち着いて、大丈夫だから」


 子供を宥めようとするような柔らかさを含んだ声で、彼女は言った。


 「ほら、ゆっくり息しよう、な?」


 こちらの緊張を解そうとしているのか、彼女は優しく頬を何度も撫でた。黒く血塗られた唇の間から、その穏やかな表情にそぐわない鋭利な歯列が覗く。


 「噛むことはあっても、噛まれるのは久しぶりだな」


 血だまりの波紋と共に、どこか楽し気に、彼女はそう笑ったのだった。

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