第4話「目覚めの残響」④
木屋町通りと市道186号が交差する、阪急京都河原町駅の近く。
その一角に、
白い壁に、軒先から吊るされた古びたコーヒーミル。
昼時でも人通りは少なく、風の音がガラスを軽く叩いた。
扉を開けると、ドア・チャイムの音が柔らかく鳴る。
「お疲れさま、蓮司くん」
カウンターの奥から、この喫茶店の店主藤堂紗月が顔を上げた。
薄いベージュのエプロン。髪を後ろで緩くまとめ、頬にかかる髪を指で払う。
その仕草には、手慣れた穏やかさがあった。
笑顔は控えめだが、声には芯がある。
齢四十を越えているのだろうが、その姿は実年齢よりも若々しく見えた。
蓮司は軽く頷き、カウンター席に腰を下ろした。
「いつもの、もう用意してあるよ」
彼が座ると同時に、木製のテーブルにトレイが置かれた。
鶏むね肉のソテーに、ブロッコリーとサツマイモの温野菜。
雑穀米、豆腐とワカメの味噌汁。
彩りは地味だが、湯気の香りが生きている。
店の小さなスピーカーからは、古いジャズが静かに流れていた。
「タンパク質、ちゃんと取れてる?
前より顔色はいいけど……なんか、削れてる気もするな」
紗月はそう言いながら、サツマイモをつまんで味見した。
蓮司は箸を動かしながら、小さく「……まあ」とだけ答えた。
「“まあ”って何よ」
「問題ない」
「それ、いつもの逃げ言葉」
彼女の声には笑みが混じる。だが、その奥には薄い心配が滲んでいた。
蓮司は味噌汁を啜った。
塩気が舌に乗り、体の芯へとゆっくり沁みていく。
湯気が頬を撫でるたびに、わずかに目を細めた。
やがて、箸を置く。
「紗月」
「ん?」
「ここの飯は、飾ってなくていい」
「……それ、褒めてるの?」
「俺なりに褒めてる。今までいろんなもん食ったけど、ここのが一番ホッとする」
短い言葉だった。
けれど、それは蓮司にとって数少ない“感情の形”だった。
紗月は湯気の向こうで微笑む。
「じゃあ、今日も合格ね」
食後、彼女が小さなマグカップを置いた。
焙煎の香りがふわりと漂い、表面には薄くハチミツが垂れている。
「甘すぎないやつ。トレーニング後にちょうどいいと思って」
蓮司は黙って頷き、一口すする。
苦味の奥で、ハチミツの甘さが静かに溶けていく。
舌の上に残るのは、わずかな温度差。
それが、不思議と心地よかった。
「お菓子代わりにこれも」
紗月はプロテインバーを皿に乗せて差し出した。
「市販のやつだけど」
「十分だ」
ひと欠片を齧る。
硬い食感と人工甘味料の匂いが広がる。
だが、なぜか安心する味だった。
それが彼の“日常の味”だった。
「今日も夜、行くの?」
「……ああ」
「無茶しないでね」
「してない」
「それ、してる人の言葉だよ」
紗月は苦笑し、マグを指でなぞった。
午後の光が窓から差し込み、テーブルの縁を照らしていた。
光の粒が、コーヒーの表面でわずかに揺れる。
蓮司はそれを黙って見つめる。
空になったマグの底に残るハチミツの筋を、
指先でなぞるように見つめていた。
その小さな黄金色の跡が、
彼の中で唯一、温かいものに見えた。
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