第3話「目覚めの残響」③
朝のランニングを終え、蓮司はアパートの一階へ戻った。
鍵を取り出し、静かにドアを開ける。
古い建物特有の湿った空気が、体にまとわりついた。
呼吸と、汗が床に落ちる音だけが響く。
部屋の隅、ベッド脇のスチール棚からノートを取り出す。
汗で波打ったページの隅に、びっしりと数字が並ぶ。
日付、種目、回数、体重、脈拍。
書き込むたびに、文字は細く、震えていた。
けれど、どの行にも「昨日より上へ」という痕跡が残っていた。
蓮司は、壁に取り付けた懸垂バーを握る。
肩甲骨を寄せ、腕ではなく背中で持ち上げる――
力を出すのではなく、筋肉の連鎖を“感じる”動作。
初動を間違えれば、意味を失う。
ゆっくりと、重力に逆らうように身体を引き上げた。
あごがバーを越えるたび、筋肉が軋む。
一回、二回、三回。
息を止め、血管が膨らむ。
三十回を越えたころ、腕が震え、握力が抜ける。
それでも降ろす動きは乱さない。
“静かに終える”ことも、儀式の一部だった。
ペンの「カチリ」という音が、記録の区切りを告げる。
次はジャンプ・プッシュアップ。
床を押し、身体ごと浮かせる。
掌が空を切る一瞬――、重力の糸が途切れる。
拳が床に触れるたび、皮膚が削れ、汗が滲んだ。
十五回、二十回。
肺が焼ける。だが、それが快感にも似ている。
下半身。椅子に片脚を掛けて、ブルガリアンスクワット。
左右四十回ずつ、三セット。
フォームが少しでも崩れれば、膝を壊す。
鏡を見ず、感覚だけでバランスを探る。
呼吸を刻むように動き、太腿を杭のように地面へ打ち込む。
痛みが走るたび、体が“まだ在る”ことを知る。
仕上げは体幹。
プランク二分、十五秒休みを挟んで三セット。
次にサイドプランクを左右。
最後にレッグレイズ。
腹の奥が震えるまで――時間ではなく、限界の震えで終える。
床に落ちる汗が、小さな円を描いた。
蓮司は仰向けになり、天井の亀裂を見つめる。
肺の奥に空気を満たすと、血の味が口に広がった。
――生きている。
その確かさが、今の自分をわずかに繋ぎ止める。
五分の休憩を挟み、縄跳びへ。
皮のグリップが掌に馴染み、擦れた縄を見つめる。
「まだ跳べる」
小さく呟き、地面を蹴る。
コンクリートで縄が唸りを上げる。
両足跳び百回、交差跳び五十回、二重跳び三十回。
呼吸が整うと、世界が一瞬、静止する。
そこからこからそこからボクサー跳び――左右の足を細かく刻む動き。
足首と膝を柔らかく使い、体重を乗せず、リズムだけで浮く。
トントン、トントン――。
縄が地面を擦るたび、砂が舞う。
千回を越えたころ、肩が熱を持ち始めた。
痛みではなく、沈黙の中に滲む熱。
それでも止めない。
息が荒れ、視界が揺れる。
それでも跳び続けた。
割れた鏡に映る男の瞳だけが、まだ濁っていなかった。
焦げた灰の底に、わずかな火が灯っている。
蓮司は跳びながら、それを確かめていた。
燃え尽きたはずの心に、まだ小さな熱が残っているか――。
縄を止めた瞬間、沈黙が落ちる。
心拍だけが耳の奥で響いた。
ノートに「完遂」と書く。
それが今日の合格印だった。
浴室へ向かう。
シャワーのハンドルを捻ると、鉄管が唸り、ぬるい水が首筋を伝う。
熱すぎず、冷たすぎない。
夢と現の境目のような温度。
湯気の中、自分の呼吸音だけが響いた。
筋肉の奥の痛みが、生の証拠のように残る。
「今日もちゃんと、生きてる」
誰に聞かせるでもなく、口の中で呟く。
シャワーを止めると、静寂が戻る。
曇った鏡の中、頬骨の下に薄い傷跡が浮かぶ。
蓮司はそれを見つめ、何も思い出さないように頭を乱暴に拭いた。
冷蔵庫からプロテインを取り出す。
スプーン二杯をシェイカーに入れ、アーモンドミルクで割る。
粉が沈む前に振り、一気に飲み干す。
わずかに甘い香りが鼻を抜けた。
それが、朝と昼の境界を告げる合図だった。
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