第2話 リタという女

扉の蝶番がきしみ、煤と油の混ざった風が顔に張りついた。真鍮の街灯が鈍く滲み、空いっぱいに縫い込まれた配管は、雲の腹からぶら下がる静脈のように脈を打っている。黒い鳥型ドローンが無音で旋回し、通りの端では車輪仕掛けの馬車が遠ざかった。足元の鉄板は雨でぬめり、踏み出すたび冷たい音を返した。遠くの塔では巨大な歯車が回転し、街全体がゆっくり呼吸している気配がした。


「ようこそ、教育局の特別区へ」


声は背中の少し斜め後ろから落ちてきた。振り向くと、バイクに似た機械の横に女が立っていた。黒革のスーツ、腰まで届く白銀の髪。額には真紅のゴーグル。その赤だけが血のように鮮やかだ。唇には細い煙管、火口が微かな紅を脈打たせ、吐き出された煙が煤に紛れて消えていく。


「……誰だ、お前」

「リタ。あなたの“更生担当”」


軽い声色に反して目は冷たかった。氷の芯のように温度を持たない視線がこちらを測る。


「更生?俺が?どういう意味だ」

「弟の借金、覚えているでしょう。代償は時間。あなたはここで“学ぶ”。矯正教育局の特別プログラム。終われば、いくつかが元に戻るかもしれない」


「元に、って何がだ」

「あなたの生活。あるいは、あなたの弟」


名を出され、胸の奥の糸が強く引かれた。タケル――雨に濡れ、震えていた背中。取り立て屋の無表情。次の瞬間の閃光。


「タケルはどこだ」

「質問は一つずつ」


女が指で時刻を弾くように煙管を鳴らした瞬間、両脇から黒服が現れた。反射で下がるより早く腕を掴まれる。革手袋の圧力、鉄の匂い。


「離せ!」


身体を捩じり、肩で押し返す。だが首筋へ冷たい金属が触れ、骨の芯まで薄い電流が走った。膝が抜け、視界の縁が暗く滲む。塔の歯車が回転を速め、街の唸りが高くなる。


「弟を……どうした」


喉から押し出した声は掠れていた。リタは一瞬だけ目を伏せる。揺れは小さいが、明確だった。


「タケル。いい子だった。けど──少し壊れちゃった」


壊れた、という語が耳の奥でゆっくり開く。何が、どこで、誰の手で。問いは口まで上がるのに、舌が重い。


「安心して、アキト。これは最初の手順。痛みは長く続かない」

「俺の名を……どこで」

「あなたの弟が、壁に書き残していた。“逃げろ。アキトへ”」


落書き。錆色の壁。見たことのない走り書きが脳裏を掠める。


「案内するわ。特別区の規則は簡単。歩く、聞く、忘れないふりをする」

「ふり、だと?」

「忘れたように見せるの。忘れないで生き延びるために」


黒服に支えられたまま、足が鉄板を滑る。メーターの針が赤域をかすめた。リタは振り向きもせず、小さく指を鳴らす。街のスピーカーが繰り返す。「市民は指定区画を離れないように」


「歩幅を合わせて」

「命令するな」

「命令じゃない。ここでの助言は命綱」


塔の影が長く伸びた。視界の端でゴーグルの赤が灯る。視界が暗く沈んだ。


足音の列が交差点で止まり、金属柵が自動で開いた。向こう側には低いアーチの通路。壁に擦れたような文字がうっすら残り、指先ほどの翼の歯車がいくつも重ねて描かれている。誰かが急いで残した印だ。俺は立ち止まろうとしたが、肩を押され、視線だけがそこに縫い付けられた。


「見えた?」

「何をだ」

「“出口は上じゃない”。ここの標語」


女の靴音が乾いて響く。「上層は綺麗で退屈、下層は汚くて正確」

「じゃあ、どこを」

「間。配管と配管の隙間。監視の届かない振動の死角」


意味を測る前に視界が揺れた。唸りが増幅し、どこかで汽笛のような音が鳴る。黒服の手が額に触れ、薬品の匂いがふっと鼻腔に落ちた。


「少し眠って。続きは、その先で」


リタの声は温度を持たないのに、言葉の端だけが近かった。俺は最後にもう一度だけ、壁の翼の歯車を見た。歯の欠けた印が、なぜかタケルの笑い皺に見えた。

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