錆びた街の落書き

宮滝吾朗

第一部 脱出編

第1話 鉄と油の街

鼻を突く、鉄と油の匂い。


目を開けると、天井は銅板のように錆びつき、歯車が軋む低音が響いていた。

一定の間隔で鳴る金属音は、まるでこの建物自体が呼吸しているようだった。


ここは……どこだ。


意識の奥に、弟の声がまだ残っていた。


――兄貴、頼む。もう少しだけ時間をくれ。


あの夜、京橋の裏通り。

白いネオンが雨に滲み、通りを照らしていた。

金を取り立てる男たちの無表情な目。

震える弟タケルの肩を、俺は庇うように抱いた。


「借りたもんは返さなあかん言うたろ」

背後で誰かがそう言った。

次の瞬間、後頭部に走る閃光。

世界が真っ白に弾けた。


……そこまでしか、覚えていない。


気づけば、見知らぬ場所に倒れていた。


鉄の床が冷たい。起き上がると、足元で油がぬらりと光った。

壁には無数のポスター。赤黒い印刷で同じ紋章が繰り返されている。

翼の中央に歯車。その下に標語。


"秩序は幸福、異端は修復。"


ぞっとするほど整った文字列だった。


ポスターの下、古びた机の上に名札が落ちていた。

《矯正教育局》

その5文字を見た瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。


――矯正? 俺が?


立ち上がり、扉を押した。

軋む音とともに、重たい空気が流れ込む。

外の景色を見た瞬間、息が詰まった。


霧と煤に包まれた街。

頭上を縫うように無数の鉄橋が重なり、そこを車輪仕掛けの馬車が通り過ぎていく。

真鍮の街灯がくすんだ光を投げ、空には巨大な配管が蛇のように這っていた。

人々は無表情で歩き、誰もが同じ色のコートを着ている。


ここは京橋じゃない。

けれど、確かに“京橋のような何か”がそこにあった。

現実の京橋が、長い時間を経て錆び、歪み、夢の底に沈んだような――そんな街。


ビルの壁に貼られた看板には、かすれた文字で書かれていた。


"京橋機関街へようこそ。"


冗談だろ。


遠くで機械の唸りが鳴り、煙が立ち上っている。

道の先に、背の高い塔が見えた。

塔の表面は歯車のような装飾に覆われ、ゆっくりと回転している。

あの動力がこの街を動かしているのか。あるいは、誰かの命を吸っているのか。


足音を立てるたび、靴底から鉄の響きが返る。

周囲の人間は俺を見ようともしない。

まるで俺が、最初からこの街の一部だったかのように。


「すみません、ここはどこですか?」


声をかけても、誰も答えない。

代わりに、どこかのスピーカーから機械音声が流れてきた。


『市民は指定区画を離れないように。再教育は幸福への第一歩です。』


その言葉の一つひとつが、胸に釘のように刺さる。

再教育――つまり矯正だ。


弟の顔が脳裏に浮かんだ。

タケルはここに連れてこられたのか?

俺は、代わりに――。


背中を冷たい風が撫でた。

振り向くと、路地の奥に影がひとつ。

人の形をしているが、輪郭がはっきりしない。

光の加減か、目の錯覚か。

いや、あれは確かに――人だった。


黒いレザーのスーツ。

腰まで垂れる白銀の髪。

額には真紅のゴーグルが光っている。


女だ。


霧の中で、ゆっくりとこちらを見た。

その瞳は氷のように冷たく、けれどどこかで微かに笑っていた。


その瞬間、遠くの塔の歯車が一斉に動き出した。

街全体が低く唸り、足元の鉄床が震えた。


――何かが始まる。


俺は思わず息を飲んだ。

女はそのまま、手を差し出すように軽く動かした。

そこから微かに光が零れる。


そして、口が動いた。

音は聞こえなかったが、確かに言葉を発していた。


"ようこそ、教育局の特別区へ"


風が吹き抜けた。

油の匂いがまた鼻を刺す。

世界が、錆びついた音を立てて動き出す気配がした。

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