第15話 美月のブレンド⑥ 届く場所
放課後の教室は、夕陽に染まっていた。
窓際の席で、美月は一枚の便箋に目を落としていた。
——言葉にするのは、まだ怖い。
でも、あの頃の自分に届いてほしかった言葉を、
今の自分が誰かに渡せるなら。
ペンを握る手が、少しだけ震えていた。
けれど、美月はゆっくりと書き始めた。
「私は、走ることが好きでした。
でも、好きだけでは続けられない時もあります。
苦しくて、怖くて、誰にも言えなかったこともありました。
それでも、あの頃の自分がいたから、今の私がいます。
あなたが今、どんな気持ちで走っているのかはわかりません。
でも、もし迷っているなら、どうか自分の気持ちに耳を澄ませてみてください。
誰かの期待よりも、あなた自身の声を大切にしてほしい。
——これは、かつて走っていた私からの、静かな応援です。」
書き終えた手紙を、封筒にそっと収める。
宛名は書かない。
彼女とは、小学校の陸上大会で出会った。
年齢は三つ下。
走ることが楽しいと、初めて思えた日だった。
中学も高校も、同じ時間は過ごせなかった。
けれど、文通だけは続いていた。
お互いの悩みも、嬉しかったことも、言葉で渡し合っていた。
それなのに、私から文通を途絶えさせてしまった。
走ることをやめてから、言葉にするのが怖くなって、沈黙だけが残った。
彼女が、私を慕って同じ高校に入ったことは知っている。
でも、直接渡すには、時間が空きすぎてしまったから。
何をどう話せばいいのか、まだ整理できていない。
最近、人伝えに聞いた。
彼女が、陸上を続けるかどうか悩んでいるらしいと。
——だから、もう一度だけ。
言葉を渡してみようと思った。
美月は、封筒をそっと鞄にしまった。
そして、顧問の先生に預けることにした。
あの子が、無理なく受け取れるように。
その夜、美月はカフェ・デ・ソルテを訪れた。
マスターは、いつものように静かに迎えてくれた。
「こんばんは。今日は、どんな風が吹いていますか?」
「……誰かに向かって吹いている風、かもしれません。
まだ届いたかはわからないけど、言葉を渡しました」
マスターは頷き、豆を選び始めた。
軽やかな香りのコスタリカと、やわらかな甘みのニカラグア。
誰かの心にそっと触れる、やさしいブレンド。
「どうぞ。届くことを願う一杯です」
カップを受け取り、美月はそっと口をつけた。
やわらかな酸味と、静かな甘み。
胸の奥に、風がそっと吹き抜けるような味だった。
「……この味、誰かにそっと触れるみたい。
強くないけど、ちゃんと残る。
言葉も、こんなふうに届いたらいいな」
マスターは微笑んだ。
「言葉は、見えなくても届くものです。
灯りのように、静かに、確かに」
その頃——
部室の隅で、一人の少女が封筒を開けていた。
差出人の名前はなかった。
けれど、文字のひとつひとつに、どこか懐かしい風を感じた。
文通が途絶えてから、ずっと気になっていた名前。
見覚えのある筆跡。
読み終えたあと、彼女は窓の外を見た。
夕焼けのグラウンドに、風が吹いていた。
「……美月さん、ありがとう」
その言葉は誰にも聞かれなかったけれど、
美月の言葉は、確かに届いていた。
カフェ・デ・ソルテの窓辺で、美月はノートを閉じた。
何かが静かに終わり、何かが始まった気がした。
「……届いてるといいな」
マスターは、静かに頷いた。
「ええ。あなたの言葉は、もう風に乗っていますよ」
美月は、そっと微笑んだ。
そして、胸の奥に灯った小さな光を抱いて、
静かに、未来へと歩き出した。
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