酔刃の護影 ~記憶を喰らう守護天使~
黒羽 透矢
第1話 酒気帯びの守護天使
夕暮れの街角で、一人の女が誰ともなしに呟いた。
「正義の味方が酒臭いってのは、ないよなぁ……でも、記憶に残らないなら、まぁいっか」
◇
放課後の路地裏は、ひどく静かだった。
いや、正確には静かな“ふり”をしているだけだ。遠くでクラクションが鳴り、誰かの靴音が響き、壁のひび割れを風が擦る。小さな音が全部、妙に大きく聞こえてくる。
通い始めたばかりの高校の帰り道、スマホのナビの調子が悪かった。だからだろうか……高梨 みちるは、知らない道に迷い込んでいた。
「帰り道、こんなのじゃなかったよね?」
こんなシチュエーション、ホラーゲームの隠しルートくらいでしか見たことない。道を間違えたのか、それとも道の方が勝手に歪んだのか。嫌な汗が背中を伝う。こういうとき、だいたいろくなことは起こらない──そう直感していた。
そして案の定、現れた。
金髪。サングラス。スウェット。広すぎる肩幅。語彙の壊れた笑い声。
「おねーさん! どこ行くの?」
「制服かわいいじゃん、彼氏いるの?」
「あ──SNSで見たことあるんだけど、この制服ってどこ高だっけ?」
半グレ。名前は可愛いくせに、中身はだいたい笑ってない。
腕を掴まれた瞬間、みちるの体は石みたいに固まった。振りほどこうとしてもびくともしない。強引に引っ張られて、足がもつれて、視界が斜めに崩れる。
心臓がぐいぐい脈打つ。声を上げようとしても喉がひゅっとつまる。けど頭の片隅では『あー、これ絶対漫画だったら、ヒーロー登場フラグだよね』なんて現実逃避していた。
そのとき。
「……あの、その子、嫌がってると思うので……やめたほうが」
声がした。
振り返ると、そこにいたのはヒーローじゃなくて、地味な女。
長い髪はざんばらで、前髪が目元を覆っている。姿勢も声も弱々しく、ひと目で分かる真面目そうな根暗OL。こんな半グレたちに、自分から声をかけられるようなタイプでは、どう見ても──ない。
「マジ、やば」
「こいつ何? この子のセン公?」
「おい、あんたに用ねえんだよ。帰れよブス!」
「……ひ、えっ……すみません……」
女はすくんだ声を出したが、それでも一歩も引かず、鞄から何かを取り出した。ノートPCとか弁当箱しか入ってなさそうな鞄の中から取り出されたのは──酒瓶?
それも、ウイスキー。しかも、ためらいもなく栓を抜くと、そのままラッパ飲みを始めたのだ。
ごくごく。ごくごく。
場が、凍る。
みちるも半グレも、なぜか全員が見守ってしまう。
「ぷはぁ~~~っ!!」
女は豪快に吐息を漏らし、顔を真っ赤に染めた。
前髪の隙間から見えた瞳は、さっきとは別人のようにぱっちり輝いている。口角は釣り上がり、笑顔は場違いなくらい楽しげだった。
「っな、何だコイツ……!」
半グレが顔を歪める。
だが、彼女はノリノリで続けた。
「ちょっとぉ~、君たちさぁ! 女の子にしつこくするのダメでしょぉ~! ナンパするならさぁ、せめて中身がイケメンじゃないと無理だよぉ? 小学生の道徳の教科書を読んでから、出直してきな?」
声も、仕草も、態度も──もはや、完全に別人。
そして、よく見ると、とんでもない美人。
酔っぱらいみたいにフラフラしているのに、腰は妙に落ちていて、重心だけは異様に安定している。
──これ……酔拳!?
酔えば酔うほど強くなる……という、アレ。映画の中だけのフィクションだと思っていたけど──この女は、現実にそれをやってのけているように見える。
ネット動画か何かで見た“前庭感覚の再構築”という言葉が脳裏をよぎった。
もしかして……そういうふうに“造られてる”?
「フザけてんじゃねぇ!」
半グレの拳が空を切り、次の瞬間には彼女の足が顎を撃っていた。流れるような一撃。酔っぱらいとは思えない正確さだった。
ドンッ! ──という派手な音とともに、男の体が横っ飛びに吹き飛ぶ。
「やばーい、超気持ちいい~! はい次~っ!」
半グレたちが怒鳴りながらポケットからナイフを取り出した──が、女は酔っぱらいの盆踊りみたいにくるくると一回転し、残りの半グレたちをまとめて薙ぎ払った。
肘か膝か、もはや何で攻撃したかもよく分からない。動きの軌道が、人間の反射じゃ説明できないほど滑らかだった──まるで、酔いが神経を乗っ取ってるみたいに。
気づけば、半グレ全員が地面とお友達になっていた。
みちるは、ぽかんと口を開けて硬直した。
現実ではありえない──まさにギャグみたいな強さ。でも、酒の匂いと一緒に、空気まで酔ってるみたいだった。現実がふわふわしてる。この女、異世界転生でもしたチート能力者じゃないのか?
異世界転生者疑いの女が、馴れ馴れしくみちるに近づいてきた。そして、気さくにウィンク。
「JKちゃん、大丈夫ぅ? これからは帰り道、気をつけなきゃダメだよっ」
「あ、あのっ……あなたは?」
「ん? あたし? あたしは水無瀬 灯(みなせ あかり)! てかさ~今度会ったら一緒に飲もうよ! あたし水割り作るの超得意だから!」
──水無瀬 灯。
何なんだこの人は。
そう思った瞬間──彼女はふらりと、さらに距離を詰めてきて、みちるの頭をぽんと撫でた。
「誘っといて、ごめんね? やっぱ、未成年飲酒はダメだよねぇ。それにさ……あたしのこと、覚えてない方がお互いのためだから」
「……え?」
次の瞬間、視界がふっと暗転した。
◇
はっと目を覚ますと、みちるは公園のベンチに横たわっていた。夕日の光が目に刺さる。現実のはずなのに、どこか夢みたいだった。
帰り道に迷った記憶。誰かに絡まれた記憶。誰かに助けられた気もする。けれど、肝心な部分はすっぽり抜け落ちている。
ただひとつ、鮮明に残っている感覚があった。
「何か……酒臭かったな」
そう呟いたとき、みちるは気づく。
何を忘れたのか分からないのに──胸の奥が妙にざわついていた。まるで、誰かと“約束”を交わしたのに、それを破ってしまったような……そんな感覚。
そして──ポケットの中に、見覚えのない紙切れが入っていた。
そこには、酔ったような字で、こう書かれていた。
『ごめんね。忘れてくれて、ありがとう。でも、帰り道に気をつけるのは、忘れちゃダメだぞ♡ ──あなたの守護天使より』
「…………」
これを書いた“守護天使”が誰かは知らない。思い出せない。
けれど。
この天使とは、またどこかで、絶対に会う。
そんな確信めいた予感がした。
◇
「うそ! 酒臭いとこ、記憶残ってるじゃん!!」
公園の片隅で、JKの様子を陰ながらうかがっていた灯は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
幸い、JKにその声が届いた様子はない。灯はそっと胸を撫でおろした。
「記憶を弄るの……むずぃ〜。臭いって意外に残るのかぁ」
灯は思う。でもまぁ、一番消したい記憶は……うん、ちゃんと吸えたし、問題ないか。自分の中に、静かに沈んでる。
それに、護りたいって気持ちは、酔う前からあった──でも、酔ってるときの方が、迷わず動ける。それなら、正義の味方なんて酒に酔ってるやつくらいで、ちょうどいいのかもしれない。
灯はそんな思考をめぐらすと、ふっと笑った。酔いが醒める頃には……きっとまた、護るべき誰かが現れる。
そんな確信めいた予感がした。
自称守護天使の酔っぱらい女は、ふらふらと薄暗がりの街に、溶け込むように消えて行った。
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