第1部 2話目 契約の駆け引き

 翌朝。

 アゼルの市場は夜明けとともに息を吹き返す。

 乾いた空気の中に香辛料と焼きパンの匂いが混じり、

 どこからともなく呼び声と笑い声が重なっていく。


 ルカは、屋台の布を張り直しながら考えていた。


 (やはり、昨夜の連中……動くのが早い)


 市場の隅で、すでにヴァリス商会の手先が値札を貼り替えている。

 昨日より半額、しかも「限定品」の札付き。

 どんなに良い品でも、値を崩されたら客は離れる。


 「やられましたね……」

 エリシアが眉をひそめた。

 「これじゃ、もう売れないですよ」

 「いや、売るさ」

 ルカは微笑んだ。

 「“値下げ”は勝負を早く終わらせたい者の策。

  本当に怖いのは、“契約”を握る方だ」


 エリシアが目を丸くする。

 「契約、ですか?」

 「そう。……今日の目標は“売上”じゃない。“協力者”だ」


 ルカはそう言って、紙束を取り出した。

 手書きの覚書が並んでいる。

 “共同取引契約”——この街で新しく生まれた仕組みだった。


 市場の小商人たちが集まり、仕入れ・運搬・販売を分担して利益を均等に分ける。

 単独ではヴァリス商会に太刀打ちできない彼らが、

 力を合わせるための“盾”でもあった。


 「ルカさん……これ、昨日の夜に?」

 「寝る時間を削れば、商談のひとつやふたつは進む」

 そう言って、ルカは口の端を上げた。


 午前。

 市場の真ん中、果実商のハンナが青い果実を並べていた。

 「また値が下がったの。どうしようもないわ」

 「だったら、契約を変えましょう」

 ルカが笑いながら声をかける。


 「変える?」

 「ヴァリス商会は“個々の仕入れ”を握ってます。

  だから、みんなが別々に仕入れる限り、値を操作される。

  でも、複数人で“共同仕入れ”すれば、支配は崩せる」


 ハンナは眉を寄せた。

 「……そんなこと、していいの?」

 「“自由市場”です。契約は自由だ」


 ルカの言葉に、ハンナは唇を噛んだあと、ふっと笑った。

 「なるほどね。面白い男だね、あんた」


 紙束にサインが入る。

 それが最初の一枚だった。


 昼過ぎには、契約書の束が厚くなっていた。

 果実商、布商、旅の薬師、馬具職人……

 ヴァリス商会に搾取されてきた者たちが、次々に名を連ねる。


 「すごい……! もう十数人も!」

 エリシアが目を輝かせる。

 ルカは首を振った。

 「いや、まだ足りない。

  “見せ札”を作らないと、奴らは動かない」


 「見せ札?」

 「大きな取引相手の“名前”だ」


 ルカは視線を上げ、中央の高台を見た。

 そこには、市場を見渡す白い天幕がある。

 アゼルの自治代表——老商人ギルバートの本拠。

 彼が“中立”を貫いてきたことで、この市場は保たれてきた。


 「彼が一枚噛めば、ヴァリスは手出しできない」

 「でも、あの人は誰の味方もしないって……」

 「だからこそ、動かす価値がある」


 ルカの瞳が、炎のように揺れた。


 午後。

 白い天幕の前で、二人は衛兵に止められる。


 「代表に会うには許可がいる」

 「取引の話だ。損にはならない」

 「誰でもそう言う」


 言い争いをするうちに、天幕の奥から声がした。

 「通せ」


 現れたのは、銀の髭を蓄えた老商人。

 ギルバート。

 柔らかな瞳をしているが、口元には鋭さがあった。


 「若い行商人が、わしに何の用だ?」

 「市場を守りたいんです」

 ルカは即答した。

 「ヴァリス商会が支配を広げれば、この街は死ぬ。

  だから、共同契約を立ち上げました。どうか、仲介を」


 ギルバートは静かに紅茶を注ぎ、香りを確かめた。

 「理想を語る者は多い。だが、利益を語れる者は少ない」

 「利益なら、ここに」

 ルカは帳簿を差し出す。


 中には、過去半年分の市場価格と取引履歴がびっしりと並んでいた。

 「……こりゃあ驚いた。全部、手書きか」

 「はい。市場は数字で動きます。感情は、その後です」


 老商人の瞳がかすかに笑う。

 「言葉より、数字で語るタイプか。嫌いじゃない」

 「では?」

 「ふむ。……この契約に“自治承認”の印を押してやろう。

  ただし、わしの名を使うなら、失敗は許されんぞ」


 ルカが深く頭を下げた。

 「感謝します。必ず、勝ちます」


 その日の夕刻。

 ヴァリス商会の支部前に、人々が集まっていた。

 ルカが掲げた紙には、大きくこう書かれていた。


 《自由市場共同取引 代表:ギルバート=ヴェルネ》


 騒然とする群衆。

 ヴァリスの商人たちが顔色を変える。

 「ギルバートの名が……? そんなはずは!」


 その声を背に、ルカは屋台の上に立った。

 「みなさん。僕たちは、誰の支配にも属しません。

  この市場は、売り手と買い手が対等であるための場所だ!」


 歓声が上がる。

 ヴァリスの部下たちが剣の柄に手をかけるが、

 ギルバートの印章を掲げた文書がすべてを止めた。


 「この市場で剣を抜く者は、契約違反だ」


 老商人の声が、風を切って響いた。

 男たちは舌打ちし、引き下がるしかなかった。


 夜。

 ルカとエリシアは、焚き火のそばに腰を下ろしていた。

 空には無数の星が散らばっている。


 「……本当に、勝ったんですね」

 「勝ち負けじゃないさ。

  “生き残る仕組み”を作っただけだ」


 ルカは火を見つめながら、ぽつりと呟く。

 「でも、これで終わりじゃない。

  ヴァリスはもっと大きな手を使ってくる。

  あいつらは、“王都”の影を背負ってる」


 エリシアの顔が、かすかに強張る。

 「……王都?」

 「そう。あの街こそが、世界の“仕組み”そのものだ」


 火がはぜた。

 ルカの瞳に、遠く王都の灯が映っている。


 「いずれ行く。

  あの場所を、変えるために」

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