辺境の行商人、王都を動かす

aiko3

第1部 1話目 砂塵の市

 風が鳴っていた。

 乾いた風が砂を巻き上げ、地平線のかなたまで薄茶色の霞を広げていく。


 馬車の帆布を押さえながら、ルカは目を細めた。

 このあたりの風は気まぐれで、昼は熱く、夜は刃のように冷たい。

 けれど、この風が吹く限り、砂に埋もれた街はまだ息をしている。


 「——今日も、いい風だな」


 独りごちて、荷台に腰を下ろす。

 手の中の帳簿は薄汚れた紙束で、数字がびっしりと並んでいた。

 黒の墨跡が乾くたび、かすかに草の匂いがした。


 「仕入れが八枚、運搬に三、宿代が二……で、あと七日で黒字か」


 ルカは指で額を押さえて笑った。

 王都から遠く離れた辺境アゼルまでの道のりは、誰もが嫌がる。

 商人にとっては時間こそが命。

 だが、彼にとっては違った。


 人が避けるところほど、儲け話が眠っている。


 帆布の隙間から、若い声がした。

 「ルカさん、もうすぐです! 市が見えました!」


 手綱を握る少女が、陽射しを受けて振り返る。

 エリシア。

 まだ十七、十八といった年頃だ。

 栗色の髪を布でまとめ、瞳は琥珀のように透きとおっている。

 もとは王都の名門貴族の娘だった。

 けれど父の商談の失敗で一夜にして家が没落し、

 いまはルカの助手として旅をしている。


 「焦るな、エリシア。焦る者から損をするのが市場だ」

 「……でも、今日こそ黒字になるんですよね?」

 「帳簿の上ではな」

 ルカは片目を細めた。

 「市場ってのは、数字じゃなく人間で動くもんだ。だから面白い」


 エリシアは「よく分かりません」と言いながら笑った。

 その笑みを見て、ルカも小さく息を吐く。

 笑顔がある限り、この旅は続けられる気がした。


 馬車が砂丘を越えたとき、

 視界の先に、色とりどりの天幕が広がった。


 辺境交易都市アゼル

 五大商会の支配が及ばない、最後の“自由市場”。

 ここでは誰もが、好きなものを売り、好きな値をつける。

 貴族の旗も、王家の紋章も掲げられない。


 金貨の輝きだけが、唯一の正義だった。


 「着いたな」

 ルカは手綱を引き、馬を止めた。

 砂煙の向こうから、香辛料の匂いが流れてくる。

 乾いた土の上に、音と色と匂いが混じりあう。


 それが、アゼルの“息づかい”だった。


 市の中央に馬車を停め、二人は荷を降ろした。

 木箱の中には、乾燥させた薬草と、手作りの小瓶がぎっしりと詰まっている。

 ルカが売るのは、王都では見向きもされない安価な回復薬。

 だが効き目は確かで、旅人や農夫には欠かせない。


 「これを全部、銀貨一枚で売るんですか?」

 「原価は銅貨二枚だ。売れれば十分」

 「……儲けにならないじゃないですか」

 「いいんだ。今は“信用”を仕入れる時期だ」


 エリシアが首を傾げる。

 ルカは木箱を開けながら、やわらかく笑った。

 「信用ってのは金貨より重い。

  一度手に入れば、あとはいくらでも金に変えられる」


 そこへ、ひとりの老婆が近づいた。

 「坊や、それ、本当に銀貨一枚でいいのかい?」

 「ええ。効き目は保証します」

 ルカが瓶を差し出すと、老婆はためらいながらも受け取った。


 瓶の中の薬は、ほんのり緑がかった透明色。

 香りは草と雨の匂い。

 エリシアがこっそり瓶の底を見つめる。


 「……きれい」


 ルカは小さく笑った。

 「薬ってのは、見た目も大事だ。安心感も商品のうちだからな」


 夕暮れ前には、木箱がほとんど空になっていた。

 風が弱まり、空の色が橙に染まる。

 ルカは売上を数えながら、静かに呟いた。


 「銅貨三百……よし、仕入れは回収できた」

 「やりましたね!」

 エリシアが喜んで両手を握る。

 けれど、ルカの表情は曇っていた。


 「いや……少し、買いすぎてる」

 「え?」

 「市場の流れが不自然だ。誰かが裏で仕掛けてる」


 その時だった。

 風の向こうから、馬の蹄の音が響いた。

 黒い外套の男たちが、数人。

 胸には“ヴァリス商会”の印章が光っている。


 先頭の男が、ルカの店先に立った。

 片目に古傷のある、鋭い視線の男。

 「おまえがルカか。辺境で安物の薬をばらまいている行商人だと聞いた」

 「噂が早いですね。商人の耳は風より鋭い」


 男は鼻で笑った。

 「おまえのせいで、うちの支部が赤字だ。市場を荒らすな」

 「荒らしてませんよ。ただ、人が求める値で売っているだけです」

 「ここはヴァリス商会の縄張りだ。好き勝手にやっていい場所じゃない」


 エリシアが思わず声を上げた。

 「でも、市は“自由市場”のはずです!」

 男が冷たく笑う。

 「それを決めるのは、力を持つ者だ」


 その一言に、ルカは目を細めた。

 言葉を飲み込み、短く息を吐く。


 「……そうですか。

  けれど、契約っていうのは、力を縛るためにあるんですよ」


 男が目をすがめる。

 「なに?」

 「“自由”を奪う契約は、契約とは呼ばない。

  ただの脅迫です」


 沈黙。

 空気が一瞬、凍りついた。


 男は無言でコインを投げつけ、瓶をひとつ割った。

 薬液が地面に散る。

 「次に売ったら、その手を折る」


 去っていく背中を、ルカは静かに見送った。

 エリシアが泣きそうな顔で問う。

 「どうして、何も言い返さなかったんですか……!」

 「言葉は、売るタイミングが大事なんだ」

 ルカは肩をすくめ、微笑んだ。

 「もうすぐ、“買い手”が現れるさ」

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