第9話 ギルド杯決勝:神界チーム戦
決勝の朝、王都の空は薄い紙のように白かった。雪は降っていないのに、息を吐くとすぐに形を失って、見えない膜の向こうへ吸い込まれる。ギルド杯の会場は昨夜のうちに拡張され、円形闘技場の外周に透明の壁が立っていた。壁はガラスではない。光だ。光が固まって、触れるとわずかに冷たい。観客のざわめきは、その光の壁で一度やわらぎ、重くなって戻ってくる。
受付で身分札を提示すると、係の少年がかすかに震えながら言った。「対戦相手、天界ギルドチーム——“セラフィック・ユニオン”。登録名が長すぎて、みんな“天ユニ”って呼んでます」
ユウトはうなずき、振り返って仲間を見る。メイは肩の鎧を磨き続け、トゥルはフードの影で笑い、ロッドは表紙のLEDを点けたり消したりして調子を測っている。サクラは、指先を胸の前で組んで、少しだけ目を伏せていた。伏せたまつげの上に、光が薄く乗る。
「天ユニ、か」
メイが短く言った。「強そうな響きだね。嫌い」
「名前は飾り。演算を見ろ」
ロッドが穴の目を細める。「連携指数、同期率、詠唱の重なり——全部、ほぼ理想値。光魔法の層が厚い。層を剥がすには、乱数がいる」
「乱数は任せて」
トゥルが二本指を立て、指の間で小さなコインを鳴らした。金属音は光の壁に触れて、星みたいに散って消える。「今日の俺、運がいい」
「運は使うもの。守るものじゃない」
サクラが低く笑い、ユウトの袖をつまんだ。その笑いに、ほんのかすかな影があった。影は弱さの形ではなく、重さの形だ。重さは、飛ぶ前に必要だ。
試合開始の鐘が鳴る。床の紋様が光り、光の壁が一段と透明になる。天界ギルドチームが入場してきた。全員、白い装束に銀の縁取り。歩調はひとつも乱れず、足音は石に触れない。触れないのに響く。先頭の女は背が高く、金の髪が光にほどけて見える。肩に小さな羽飾り。サクラの羽の音とは違って、視覚のためだけに作られた羽。
「セラ・アウレリウス。天界ギルドの現役筆頭。奇跡の交通整理人」
ロッドが名を告げる声に温度がない。「彼女が合図を出せば、光は遅れない」
主審の声が響く。「ルール、通常戦。降参コールか、観客決議で決着。魔法の階級制限なし。ただし会場破壊は減点」
「減点は嫌い」
メイが小さく呟き、剣を抜いた。刃が冷気を裂く音のうしろで、天ユニの詠唱が始まる。音楽みたいな重ね方。低音が先に床を固め、アルトが天井の光を集め、ソプラノが視界の縁を白くする。白は冷たい。冷たいのに、火傷の跡みたいにじわじわ残る。
最初の一手で、こちらは押し込まれた。光の槍が五本、角度を変えて迫り、メイが一、二、三と弾くが、四本目が肩をかすめ、鎧の縁が黒く焦げた。トゥルが身を沈め、槍の影の影に潜り込むようにしてかわす。かわしたはずの先で、二本目の光が遅れて落ちてくる。遅延。遅れてくる攻撃は、回避の癖を逆手に取る。トゥルのフードの端が燃え、焦げた匂いが観客席のほうへ薄く流れた。客席がどよめき、配信の窓にコメントが流れる。
「圧倒的」
「天ユニの連携、化け物」
「★3残念、ここまでか……?」
ロッドのページがばさ、と鳴り、ユウトの耳元で低く囁く。「敵の詠唱、拍の間に“評価ループ”を挟んでいる。見られるほど強くなる。観客が多い今、天井を叩く」
「叩けるの?」
「叩くのは下からがいい」
ロッドの言葉の意味を、ユウトは体で理解した。土台。床。彼らの光は、空からではなく、足元の評価から立ち上がっている。なら、足元へ。
ユウトは深く息を吸い、一直線に走った。正面から。光の槍がすぐに向きを変え、彼の胸を狙う。狙われた瞬間、彼は膝から崩れ落ちる。崩れ方に迷いがない。額を石に打ちつけるほど深く、地面と仲良くなるほど広く。土下座。土下座は謝罪ではなく、角度だ。角度が変わると、光の屈折も変わる。真正面から来る槍の線が、彼の頭上でふわりと曲がった。
「土下座タックル!」
観客席のどこかが叫ぶ。叫びは笑いに混ざり、笑いは評価を乱す。乱れた評価の上にいた天ユニのソプラノが、一拍だけ外れる。その一拍で、メイが飛び込んだ。
「高級装備、乱舞!」
彼女の腰から、次々と武具が抜かれる。昨日まで見たこともないような、だれが買ったのか見当もつかないメーカーのロゴが入った剣、盾、短斧、細身の槍。どれも輝きすぎていて、使い込まれていない。無駄だ。無駄なのに、数が正義になる瞬間がある。彼女は一本を投げ、斬り、落とし、拾い、また投げた。刃が光の槍に次々ぶつかり、弾かれ、床に散って楽器みたいな音を立てる。観客の目が追いつかない。追いつかない目は、評価できない。評価できないものは、強くならない。
トゥルはその乱流の隙間を縫って走る。天ユニのバリトンが彼に狙いを定めるが、トゥルは二つ先の狙いへ先回りする。狙いを外す能力。奇跡的回避。靴底が石を滑り、彼は背中から倒れそうになりながらも、手を伸ばして光の結節点をつまむ。つまめるはずのない光の結び目が、彼の指の中で一瞬だけ硬くなった。硬くなった隙に、ロッドが詠唱を重ねる。
「自爆、準備」
「ちょ、ちょっと待ってロッド、それは——」
メイが振り返る暇もない。ロッドの表紙が開き、ページが自分で破れて丸まる。丸まった紙に文字がびっしり詰まり、熱ではない光がそこに宿る。内向きの爆発。外へ飛び散らず、中心に向かって落ちる爆ぜ方。中央で静かに弾けると、周囲の評価の線が一瞬だけ切れた。切れた線は、再接続されるまでの間、力を持たない。
「今!」
ユウトが叫び、土下座の姿勢から前へ跳んだ。額から肩へ、肩から腰へ、腰から膝へ。地面と体の接点を転がしながら、彼は天ユニの先頭——セラの足元まで滑り込む。滑り込む直前、セラの瞳がほんのわずかに広がった。遅れ、がそこにあった。遅れは光にとっては致命傷だ。
メイの乱舞の刃が、セラの側面に張られた薄膜を切る。薄膜は壁ではない。合図の記譜線だ。線が切れ、天ユニの詠唱がほんの一瞬、迷子になる。その瞬間、観客のざわめきが変わった。笑いが増える。笑いが増えるのは、評価が温度を取り戻す合図だ。
「ナイス、残念!」
配信の窓に走り書きみたいなコメントが流れ、見えない窓の向こうから拍手のアイコンが弾ける。拍手の熱は、天ユニにも届く。届くが、彼らはそれを自分の燃料にできない。笑いの燃焼法が違うのだ。彼らは“正しさ”で燃える。わたしたちは“ズレ”で燃える。燃え方が違う二つの火が、同じ場所で揺れると、煙が混ざる。煙が混ざると、視界は悪くなる。
セラが初めて口を開いた。「不潔」と一言。声は冷たく、しかし硬くはない。硬くない分、刺さらない。刺さらない言葉は、戦場では弱い。
「不潔で結構!」
メイが笑い、その笑いは彼女に似合わないほど軽かった。「借金で買った高級装備、全部ここで投げ捨ててやる!」
「やめろ、やめないで!」
トゥルの悲鳴が観客の笑いに紛れて消える。メイが放った最後の一本の槍が、光の層の端を裂き、裂けた縁から冷気が漏れた。冷気は天ユニの足元にまとわりつき、靴の底の滑りをほんのわずかに変える。変わった摩擦は、完璧な歩調の隙間に砂を入れる。砂一粒ぶんのズレが、曲全体のテンポを遅らせる。
「サクラ」
ユウトが名前を呼ぶ。呼び方は合図。「いけるか」
サクラは指を胸もとに戻し、目を閉じた。閉じた瞼の裏で、彼女の羽の音がふわりと広がる。理性の削りかすが、光の粉になって空気に混ざる。混ざった粉は冷たいのに、見ていると温かくなる。
「最後の奇跡を起こす前に」
サクラがゆっくりと言った。言葉の拍が、天ユニの詠唱の隙間に滑り込む。「ユウト。わたし、まだ女神でいられる?」
観客席の空気が一瞬止まった。止まった空気の冷たさが頬に触れる。ユウトはその冷たさを、息でひとつ溶かした。溶けたところに、言葉を置く。
「神様なんかじゃなくていい」
彼は笑った。笑いは薄い膜にならず、骨の内側にやわらかく広がる。「サクラは、仲間だ」
その瞬間、サクラの目尻から一滴、涙がこぼれた。涙は透明で、小さくて、それなのに光より先に光った。光った涙は床に落ちる前に形を変え、空中で小さな結晶になった。結晶は音を持ち、鈴のように鳴った。鳴りは詠唱の拍をずらす。ずれた拍の隙間に、彼女の奇跡が入り込む。
光が、降りた。熱のない白。昨日の暴走とは違う。評価の線を踏まず、目の温度に頼らず、ただ“ここ”にある人の呼吸だけに合わせる光。光は広がらず、深くなる。深くなった先で、天界の障壁——天ユニが張っていた透明の壁の外側——が、音もなく軋んだ。軋みは、古い木の家の夜の音に似ている。似ているのに、もっと深いところから来る。
「無効化、無理」
ロッドがかすれ声で言った。「これは条文の外側。人間の言葉の内側」
天ユニのセラが合図を出す。彼女の手の角度は寸分違わず美しい。美しいのに、遅い。遅いのは、彼女のせいではない。遅れは、誰かの涙のせいだ。涙が落とした影が、光の速度をほんの少しだけ鈍らせる。鈍った光は、障壁にならない。
サクラの涙から生まれた光は、天界の障壁に触れて、波紋を作った。波紋の縁が一つずつほどけ、ほどけた糸が宙に舞う。舞った糸は小さな星になり、会場の天井に吸い込まれる。吸い込まれた星の数だけ、障壁の“正しさ”が薄くなる。正しさが薄くなった壁は、数字で支えられず、音で支えられる。音は——今は、こちらの側に多い。
「いまだ!」
メイが駆け、ユウトが続き、トゥルが横から入り、ロッドが最後にページをひとつ折る。折ったページは刃物のように薄く、光の縁を切った。切れた縁から、冷たい風が流れ、天ユニの隊列の中央に小さな渦が生まれる。渦は誰のものでもない。ただ、そこにできた。できたものは、使える。
ユウトは渦の中心に膝をつき、額を地に押しつける。土下座タックル、二度目。今度は謝らない。謝らないが、角度は同じだ。角度が同じなら、光は同じように曲がる。曲がった先で、メイの最後の“高級装備”——未開封の豪華な盾——が、障壁の弱った部分にぶつかる。盾の表面に貼られた保護紙がはがれ、紙がひらりと舞う。舞う紙の白と、サクラの光の白が重なり、薄い音が鳴る。
天界の障壁が、割れた。割れたのに、音は小さい。小さい音ほど、遠くまで届く。遠くまで届いた小さな音は、観客席の誰かの胸の奥で弾け、拍手の合図になる。合図が一人から十人へ、十人から百人へ。拍手が厚くなる。厚い拍手は、天ユニの足元の評価をやさしく崩す。崩れ方がやさしいほど、立て直しは難しい。
セラが目を細め、口元だけで「参った」と言った。主審が手を上げる。鐘が鳴る。音は冷たく、しかし甘かった。甘さは、苦さのあとでしかわからない。
会場が爆発した。歓声、笑い、泣き声。配信の窓には「残念、最高」「土下座タックル草」「女神じゃなくて仲間、尊い」「天ユニ相手に勝つとか夢かよ」と文字が踊る。踊る文字の向こうで、誰かの手が叩かれ続ける。叩く音が熱になる。熱が、冬の会場の白をやわらかく溶かす。
セラはゆっくりとこちらへ歩み寄り、サクラの前で立ち止まった。近くで見ると、彼女の目は冷たくない。冷たく見える掟の色が、瞳に映っているだけだとわかる。
「あなたの涙は、武器ではないのね」
セラが言う。言葉はきれいに整っているのに、端だけが少し揺れた。「武器にできるものは多い。けれど、今のそれは、違った」
「違うよ」
サクラがうなずいた。「これは借りものの奇跡じゃない。返しながら使うやつ。——人間の言葉で」
セラは短く息を吐き、目を伏せた。「敗北を認める。天界の障壁が、人間の涙で割れる日が来るなんて、法務の書庫のだれも想像していない」
「法務の書庫は、たぶん暖かすぎる」
ロッドが乾いた声で言って、LEDを一度だけ点した。その点滅に、セラはほんの少しだけ笑った。笑ったのは、きっと彼女の意思だ。
「勝者——チーム★3残念!」
主審の宣言に、会場の熱がもう一段上がる。メイが盾を高く掲げ、トゥルがひとりで舞台の端から端へ走り、ロッドが破いたページを、きれいに折り直して表紙に戻す。ユウトはサクラの手を取った。手は冷たく、冷たさはすぐに移った。移った冷たさは、今日の記念にちょうどよかった。
「勝ったね」
ユウトが言うと、サクラは目を細め、ふっと笑った。
「うん。わたしたちの勝ち。……でも、まだ終わってない。七日後、魔王軍が来る」
「わかってる」
ユウトは観客席を見上げた。見上げた先で、何千もの目がこちらを見ている。笑っている目、泣いている目、眉を寄せている目。どれもが温度を持っている。温度は、配分できない。誰かに渡して同じ形では戻らない。
「だから、今は——立って、笑う」
ユウトは言った。笑いは骨の内側に落ちて、音のかわりに温度になった。温度は、冬の終わりの印だ。終わりは、始まりの合図でもある。
表彰台でメイが副賞の木札を受け取り、ロッドが「友情スコア、暫定四十五」と読み上げる。トゥルが「賭け、勝った!」と叫び、サクラが苦笑する。光の壁が少しだけ薄くなり、外の空が近づく。近づいた空は、さっきより少し青かった。
退場のとき、天ユニのセラがユウトにだけ小声で言った。「仲間は、神より強い。——その言葉、うちの書庫にも書いとく」
「書庫は暖かくしすぎないで」
ユウトが返すと、セラは一瞬だけ肩を揺らした。笑うというより、凍ったものが内側からゆるむ動き。ゆるんだものは、壊れやすくなるけれど、光も通す。
会場を出ると、王都の空気は朝より軽くなっていた。雪は降らない。降らないのに、空から白いものが落ちてきた。星の紙。だれかが撒いたのではない。天井からほどけた光の糸が、紙の形に変わって落ちてくるのだ。紙を一枚受け取ると、冷たかった。冷たさは悪くない。悪くない冷たさは、記憶の表面に貼りついて、いつかを守る。
サクラがその紙を見て、小さく言った。「ねえ、ユウト」
「ん?」
「さっきの“仲間だ”って言葉、返却は不要。貸し借りじゃないもの」
ユウトは笑い、紙を空へ返すように放った。紙はふわりと舞い、光の壁の残り香に触れて、溶けた。溶けた白は、目に見えないのに、確かにそこにあった。確かさは数字にならない。ならないものを抱えて、彼らは次の七日へ歩き出した。拍手の余熱が、まだ足元に残っているうちに。
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