第8話 魔王軍からのスカウト
王都の冬は、音の端をすぐに凍らせる。朝の市場の呼び声も、郵便配達の口笛も、鐘楼の鐘も、出ていくそばから白く固まり、角を丸めて落ちる。落ちた音は人の足元で砕け、粉になり、気づかれないまま風に混ざった。
その日、ギルドの大広間には、珍しく匂いがなかった。湯気の臭いも、油の匂いも、紙のにおいも薄い。薄さの中心に、女が一人、立っていた。真っ黒な上着。襟は高く、肩は細く、指は長い。体のどこにも重さがないのに、床だけが沈んで見える。彼女の周りで空気の膜が一枚剥がれ、剥がれた向こうで、音がほんの少し遅れる。
「スカウトに来た」
彼女は言った。挨拶がなかった。名乗りの代わりに、冷たさだけが名刺みたいに置かれた。「魔王軍参謀、セレス。依頼ではない。提案だ」
受付の女性が喉を鳴らした。鳴らした声は膜に吸い込まれ、すぐにしおれた。ユウトはカウンターから半歩前に出る。メイは自然に彼の斜め前へ。トゥルは柱の影に体を滑らせ、ロッドはいつものようにユウトの肩に重さを合わせる。サクラは、少し遅れて、ユウトの左側に並んだ。並び方がいつもの位置で、胸の奥がほんの少し緩む。
「スカウト?」
ユウトは繰り返した。繰り返しは時間稼ぎだ。時間が稼げると、怖さの形が見える。「僕たちを……魔王軍に?」
「“残念な人気者”は敵国の士気を最も効率的に削る」
セレスは表情を変えずに続けた。「評価の形が笑いであるほど、観客は気づかない。気づかぬまま士気は崩れる。お前たちはよく笑わせる。よく転び、よく立つ。敵兵は、お前たちの立ち上がり方を見て、自分の立ち上がり方を忘れる。戦場では、それが死に直結する」
「……言い方、最低」
メイが眉をひそめ、すぐに戻す。戻すことができるのが彼女の強さだ。「でも、報酬は?」
セレスの指が軽く揺れた。空気の中に数字が並ぶ。見たことのない桁の並び。王都の宿を一年借り切っても余る金。借金を一瞬で四回返済できる額。指輪のような契約印。契約文字は読み慣れない字体で、読むほど冷える。
「破格。お前たちの“失敗”を、最適な場所で演出する舞台も用意する。敵陣の目前でこそ、笑いは最も鋭い」
「俺は即OKで」トゥルが軽く手を挙げた。「賭場のオッズ、戦争がいちばん跳ねる。俺たちが魔王軍に入るかどうか、きっと賭けが立ってる。俺は“入る”に全部……いや、半分張る」
「半分にしとけ」メイが小声で釘を刺すと、トゥルは舌を出して笑った。
「戦略的価値は、ある」
ロッドの穴の目がわずかに狭まる。「敵軍士気の“同期率”を乱せる。お前たちの寸劇は観測者の拍をばらし、同時に“拍手熱”を引き上げる。前線でそれを発生させれば、戦線の弾性率は下がる。数式上は魅力的」
「数式で戦争が終わるなら、とっくに世界は温かい」
サクラが首を振った。動きは小さく、声は低い。「彼らの笑顔は、人間のもの。魔王軍の旗の下で使われたら、笑いが“凶器”になる。笑わせるのは好き。でも、利用は……嫌だ」
セレスの口角が、ほんの少しだけ曲がった。笑顔の形ではない。数字の端を揃えるときの、指の角度に似ていた。
「利用、とは人間の言葉だ。神の言葉では“配分”。魔王軍は配分がうまい。資源を、恐怖を、歓声を、死を。お前たちの笑いは、最前線で最もうまく配分される」
ユウトは喉に小さな苦さを感じた。苦いのに、甘さの残骸がある。失敗祭の夜、紙の王冠の感触がまだ頭皮のどこかに残っている。「……僕たちが“残念”なのは、舞台があるからじゃない。誰かの目の高さで転ぶからだ。見下ろされるために転ぶんじゃない」
「見上げられるためでもない」
セレスの瞳が、薄い氷の内側で光った。「一週間、時間をやる。考えろ。“暫定の★3”に飽きたら、ここへ戻れ」
黒い上着の裾がわずかに揺れ、空気の膜が一度めくれて、戻った。戻った瞬間、匂いが帰ってきた。湯気、油、紙。ギルドが、ギルドの匂いに戻る。受付の女性は一度深く息を吐き、机の下の鐘にそっと手を触れた。鳴らない鐘。鳴らさない鐘。
「どうする?」
メイが真っ直ぐに訊いてくる。彼女の目は、金属のように固いのに、奥に水がある。「私は、正直、揺れてる。賞金より大きい報酬、借金を終わらせる近道、そして……勝つ側につく安心。汚い考えだと思う?」
「汚いは、温度の言葉」ロッドが淡々と言う。「温度は数値化が難しい」
「難しいから、守る」
サクラがユウトの袖を軽くつまんだ。「選ぶのは、あなた」
ユウトは返事をしなかった。返事をしないまま、しばらくギルドの外へ出て、雪の気配を吸い込んだ。王都の冬の匂いは、鼻の奥を冷やすだけでなく、舌の奥の言葉にも薄く霜を降ろす。霜の下で、言葉が固くなる。固くなった言葉は、割れやすい。
結論を出せないまま、その夜を迎えた。
夜は、最初から静かではなかった。蒸気管の音が低くうなり、遠くの広場で何かが割れる音がした。割れる音は小さく、しかし、同じ音が何度も繰り返された。繰り返される音は、意図の形を持ちはじめる。意図の形を持った音は、誰かの手の動きに似る。
「外」
メイが窓を開くと、風が一気に流れ込んだ。流れ込んだ風は、白ではなく、透明だった。透明さは、雪が音を持たないときの色。路地の角から角へ、薄い光の糸が張られ、その上に、つららのような針が無数にぶら下がっている。針は誰かの息で成長する。息が止まると、針はゆっくり太り、落ちる。
「……凍結」
ロッドのLEDが弱く点いた。「広域。発生源、不明。温度勾配の形が人工的。自然にはならない曲率」
「魔王軍」
トゥルが窓枠に飛び乗り、すぐに降りた。靴底に薄い氷がつき、床板で乾いた音を立てる。「報復。スカウト断ってないのに。いや……断ったのと同じか」
外へ出ると、街が固まっていた。人の姿はある。立ったまま、振り返ったまま、品物を受け渡しする手のまま、笑いかける直前の口元のまま。動かない。動かないのに、目だけが見開かれて、白い光を拾っている。目は、氷の下で開いている。開いた目は、涙を出せない。
「止める」
サクラが一歩、前に出た。指先が白く、背中の見えない羽が音を持つ。音は細い。細いけれど、確かに羽の音だ。彼女の奇跡は、理性を削って起こる。削るたびに、彼女は少しずつ軽くなる。軽さは危険。けれど、今は危険を許すしかない。
「待って」
ユウトが近づく。「昨日、休んだばかりだ。暴走したら……」
「止めて」
サクラはユウトを見た。瞳に温度はほとんどないのに、見るという行為だけで温かい。「止めてね」
光が出た。昨日の奇跡の光とは違う。熱のない白の中に、薄い青が混ざる。青は冷やすための色ではなく、冷たさをなぞるための線。線が街の角を撫で、つららの針を溶かし、舗道の氷を割る。割れる音が連続して、音の粉が空中に舞う。粉の中に、小さな字が見えた。読めるようで読めない字。字の形は——契約印の字体に似ていた。
「サクラ、深い!」
ロッドが警告する。「評価ループを噛んでる。“目”の層が奇跡に混ざった。見られすぎると、光が“返答”を始める。返答はエスカレートする」
光は膨らんだ。膨らみながら、周囲の温度を吸う。吸った温度が、そのまま言葉になって吐き出されそうになる。吐き出される言葉は、たぶん、誰かを刺す。刺すための正確な言葉。ウケる嘘ではなく、当たる真実。
ユウトは駆け出していた。走りながら、過去の“謝る”癖が背中でちぎれて落ちる。落ちた謝罪は雪に混ざり、すぐに見えなくなる。代わりに、胸の真ん中で何かが膨らんだ。膨らんだものは、怖さの芯を押し出し、脚に熱を渡す。
光の中心に飛び込むと、骨が鳴った。鳴った音は痛みではなく、調律の音。サクラの指先がユウトの胸に触れ、触れたところから、彼女の理性の欠片が移ってきた。欠片は冷たいのに、入ったそばから温かい。「戻ってこい」と言うよりも先に、ユウトは短く叫んだ。
「俺たちは星の数なんかより、大事なもんを守る!」
声が光にぶつかった。ぶつかった瞬間、光の中の青い線がほどけ、文字が粉になって散った。粉は雪よりも軽く、すぐに溶けた。溶けた先で、止まっていた人のまばたきが、ひとつ、ふたつ、揃う。揃うたびに、街角の温度が一度ずつ上がる。上がった温度が氷の表面に小さな水の路を作り、その路が合流して流れになる。
「……戻って」
サクラが呟いた。呟きは自分に向いていた。「戻って、わたし」
ユウトは彼女の手を握った。握る力は強くない。強くないのに、確かだ。確かさは、数にしないほうが強いことがある。数にすると、弱くなる種類の確かさが、この世にはある。
光が収束した。収束すると、街は音を取り戻した。落ちた音が戻り、冷たい鐘が遅れて鳴り、誰かが泣き出し、誰かが笑った。つららの針は消え、舗道の氷の下から石畳の古傷が現れる。古傷は寒さに強い。見えている傷は、守りやすい。
「拍手……」
メイが言った。彼女の視線の先で、誰かが手を叩いていた。ひとり。ふたり。十人。手の音は、最初は小さく、やがて厚くなる。厚い音の層は、温度になる。温度になった音が、サクラの呼吸の拍をゆっくり整える。
ロッドのLEDが穏やかに点滅する。「“拍手熱”——高い。祭り補正なし。観測者の目の温度、上向き」
「拍手は、武器じゃない」
サクラが息を整えながら笑った。笑いは弱いが、形を持っている。「わたしたちの側にあるときは」
「魔王軍の側にあるときは?」
トゥルが冗談めかして問うと、サクラは首を振った。振り方は小さく、確かだった。「そのときは、わたしが止める。止められないなら、あなたが止めて」
「止める」
ユウトは応えた。言葉は自分の体温の音をしていた。「何度でも」
セレスの姿は、見えなかった。けれど、街の角々に残った薄い冷気の線に、彼女の指の形が重なる気がした。報復は、宣戦布告の代わり。これからが本番だ。誰もがそう思った。
その夜、ギルドの掲示板に新しい紙が貼られた。文字は黒く、角は冷たい。
——魔王軍より通告:七日後、交渉再開。応答なき場合、配分を実行。
「配分」
メイが紙を指で弾いた。弾かれたところが白く光り、すぐに消える。「分けられたくないものがたくさんある」
「分けられないものもある」
ロッドが静かに言った。「笑い。拍手。握った手の温度。——あと、残念」
「残念は、奪えない」
サクラが微笑む。ユウトは笑い返し、紙を見上げた。黒い文字の上に、誰かが小さく星を描いた。揺れる線。震える星。失敗祭の夜と同じ線だ。
「考える時間は、ある」
ユウトは言った。「でも、今日の答えは出てる。俺たちは“味方につけられる残念”じゃない。“ここで笑う残念”だ」
外は、また雪が降り始めていた。降り方が、いつもより少しだけ優しい。優しさは疑っていい。疑いながら、ユウトは空を見上げる。星は見えない。見えないけれど、拍手の余熱がまだ街に残っている。余熱は夜道の目印になる。目印があるうちは、歩ける。
歩けるうちは、まだ大丈夫だ。
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