マタニティ・バッジの見せ方

@ft2e

画期的な発明・・・

朝の都心へ向かう地下鉄。始発駅のホームでぼくは行列に並び、電車を待っている。ここは――誰も書かなかった規則に支配されている。何号車のどのドアが混むか、座りやすいか。列の前から何人目までなら優先席に届くか。


始発駅は公平だ。段取りと運を積み上げれば、かなりの確率で座れる。そして、ぼくは、あえて優先席を狙う。


「優先席は避けるもの」――そんな空気があるのは知っている。けれど、避ける人が多いからこそ、空席は生まれる。


昨夜の残業の重さと、背中のリュックの重さと、年齢の重さ。それらを言い訳に、座れる日は座る。それがぼくの小さな戦術だった――過去には。


しかし今は毎日座っている。初動で座れなければ、一日の効率ががた落ちだと思っている。


もちろん、該当する人が乗ってきたら立って席を譲る。ぼくの中のルールはそこに置かれている。そして該当する人のなかでも――


マタニティ・バッジ。これがややこしい。色は肌色に近く、布の地色に似ていると輪郭が溶ける。照明の加減で陰になるとなおさらで、ぼんやりした視線で見渡せば簡単に見落としてしまう。


「気づきませんでした」


それは弱い言い訳だとわかっているのに、人混みと眠気の中では、心の奥で用意してしまう定型文だ。


でも、見過ごしてはいけない。ぼくがそう考えるようになったのは、ある日、X(旧Twitter)の投稿に次の言葉を見つけたためだ。



「お腹が大きくなってきたら、バッジなしでも一目で妊婦さんとわかるから、バッジは不要なんですよ。席は譲ってもらえます。

まあ、ここだけの話ですけど、若い女性は譲ってくれる人が少ないんです。あれは何なんでしょうね?

とにかく、大きいお腹の時は妊娠安定期に入っていて体調は比較的楽なんですよ。


でもね、本当に席を譲ってもらいたいのは、主に妊娠初期(特に8〜11週頃)なんです。

妊娠初期にはお腹は大きくない。

でも、つわりがひどく体調は全般的に悪いんですよ!

この時にバッジが役に立たないなら、バッジの存在意義が問われますよ!」



バッジはなかなか難しいんだな。何かいい方法があるんじゃないか?

ぼんやり考えながら、その日もホームに並んだ。


そして席取り合戦に勝った。連戦連勝だ。ぼくは優先席の端に腰を落ち着けた。背筋を伸ばし、入り口側の流れを見守る。

該当者が来たら席を譲りますよ。ええ、譲りますとも。


そう思いながら、心のどこかで、今日も誰も来ませんように、と祈っている。人間は矛盾の生き物だ。ドアの外の光を眺める。


最初の駅で、まとまった乗客が乗り込んできた。スーツとトレンチコートとイヤホンと、よくある朝の部品たち。その流れの中で、ひとつだけ違う動きが、視界の端に引っかかった。


銀色の細い鎖。10センチほどの長さ。ショルダーバッグの側面から、わずかに空中へ突き出している。車体が揺れるたび、鎖はゆらゆら弧を描き、その先の小さな丸いプレートが光を返す。


彼女はバッグを身体の前に抱え、まっすぐぼくの前まで歩いてきて、止まった。丸いプレートは、揺れるたび、車内の鈍い照明を拾って明滅した。これは……見慣れた赤子のアイコンと、柔らかな文字。マタニティ・バッジだ。


だが、いつもと違う。布に溶けてしまうのではなく、空中で“揺れる”ことで、こちらの視線を捕まえに来ている。


――見えないふりはできない。


ぼくの中の言い訳の通路が、音もなくふさがれる。動きは、目の無意識をつかむ。止まっていれば背景。だが揺れるものは、意志とは別に視線を奪う。


彼女はそれを知っていたのだろうか。それとも偶然、こういう取り付け方になっただけなのか。判断はつかない。けれど、この朝に限って、その銀色の揺れ、その明滅は強い合図だった。


ぼくは一瞬で観念した。座面から腰を浮かせ、目礼して言う。


「どうぞ」


彼女はすぐ頭を下げ、静かに腰を下ろした。鎖の揺れは肩の角度に合わせて小さくなり、丸いプレートは膝の上で光を失う。ぼくは彼女の前に立ち、つり革を握った。重力が足裏に真面目に降りてくる。さっきまで楽だった腰が、急に年齢を思い出す。けれど、心は不思議に軽かった。


「無言で届く方法が、ここにあったのか」


そんな言葉が、胸のどこかに浮かんでは消えた。



週が明け、ぼくは自分の朝の習慣を少し変えた。座れた日でも、入り口側に視線を置く。スマホの明るさを落とし、揺れるものがなくても、立つ。立てる。立とう。短い語が、身体に染みていく。


そして、ときどき思い出す。投稿の言葉を。


「でもね、本当に席を譲ってもらいたいのは、主に妊娠初期(特に8〜11週頃)なんです。

妊娠初期にはお腹は大きくない。

でも、つわりがひどく体調が全般的に悪いんですよ!

この時にバッジが役に立たないなら、バッジの存在意義が問われますよ!」


スマホを伏せて、視線だけを上げる。それで十分だ。

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