第6話 炎が語る懺悔と共感
健太が週末のソロキャンプの準備をしていると、妻の真衣がリビングから声をかけた。
「今回のキャンプはPCXで行くの?ワルキューレの代わりに、すっかり安定の相棒だね。」
健太の愛車は、ワルキューレツアラーを手放した後、真衣と共用のホンダ PCX125になっていた。
真衣が使うのは、もう一台のホンダ グロムだ。
今日はPCXにコンパクトなバンドック ソロドーム1と、スポーツスター2、他の道具を慣れた手付きで積み込む。
「うん。コノちゃんとのキャンプ、楽しんでくるよ。」
真衣は、健太が部下とキャンプに行くことを、特別な詮索もなく受け入れた。
「理愛夢と依真を連れて私の実家に行くから、健くんは気にせず、ゆっくりしてきて。」
その言葉は、健太にとって初めての**「罪悪感のない、自分だけの選択」だった。
真衣の「優しい毒」の呪縛**から、ようやく解放されるような感覚があった。
「ありがとう、真衣。」
土曜日の昼過ぎ。
健太はPCXで茶臼山高原キャンプ場へ向かった。
貞時とは、出発前に**「先に着いた方がオートサイトのチェックイン手続きを済ませておく」**ことで確認し合っていた。
健太は受付で貞時の名前を告げると、すでに手続きが済んでいることを知らされた。
指定されたオートサイトへPCXを滑り込ませると、そこには、年季の入ったトヨタの四角い巨体が鎮座していた。
「あ、健太さん!お疲れ様です!」
貞時が、その巨体、ランドクルーザー70のサイドステップから軽やかに降りてきた。
「コノちゃん、おつかれ。ずいぶん...渋いクルマで来たね。これ、コノちゃんの?」
健太は、PCXの小さな荷台からバンドックのソロドームを降ろしながら、尋ねた。彼のPCXのコンパクトさと、ランクル70の圧倒的な存在感は、対極をなしていた。
貞時は笑いながら、ランクル70のゴツいタイヤを軽く叩いた。
「これ、父の長年の愛車なんです。ソロキャンプ始めたんで、キャンプの時は貸してくれるんです。年季は入っていますが、ずっと大事にメンテナンスして乗っている信頼の塊みたいなものなんで。」
「なるほど、信頼の塊か」
健太は、スベア炎上のトラウマから逃れるために「安定」を選んだ自分と、「信頼」として安定した道具を親から継承した貞時との差を、改めて目の当たりにした。
貞時の車には、コールマンのクーラーボックスやツールボックスが整然と積まれていた。
そして、その横にはすでに、緑色のコールマン ツーリングドームが設営されていた。
「あ、僕、設営、得意じゃないんで、先にやっちゃいました!健太さん待たせるのも悪いんで!」
貞時はそう言うと、**ツールボックスからランタンポールを取り出し、ランタンを設置し、夜の準備を始めた。
**そして、ひと段落ついたようで、**チェアに腰掛けて一休みした。
**その朗らかさに、健太の心の緊張が解けた。
「そりゃ、驚いたな。なら俺もさっさとバンドックのソロドーム張るかな。PCXだから荷物少ないし、すぐ終わるよ。」
健太は自身のテント設営に取り掛かった。
ソロキャンプを始めてから愛用するソロドームは、慣れれば手際よく、わずか数分で設営できる。
健太は、その手際の良さを発揮し、簡素でミニマルなバンドックの隠れ家を完成させた。
貞時が安定したコールマンの居住空間を早々に確保し、椅子で一息ついている傍らで、健太は自らのスタイルを貫いた。
どちらもキャノピー(前室)を展開したが、タープは張らず、簡潔なソロのスタイルを貫いた。
設営が完了したのは、まだ14時半を少し回った頃だった。
健太は、ひとまず腰を下ろすと、PCXから取り出したスポーツスター2をテーブルに据えた。
ポンピング、点火。
湯が沸くのを待ちながら、健太は深呼吸をした。
あのスベアを炎上させてから、必ず設営後はこの流れだ。
それは、**「失敗の再発防止」であると同時に、「安寧の獲得」**の儀式のようなものだった。
健太は、荷物の中から携帯式のミルと、機能的な折り畳みドリッパーを取り出した。
コーヒー豆を計量すると、静かに、しかし丁寧にハンドルを回し始める。
シャリシャリという控えめな音が、周囲の静けさに心地よく響く。
挽き終わった豆を、ドリッパーにセットしたペーパーフィルターへ手際よく滑り込ませた。
やがて、スポーツスター2の上でケトルが静かに蒸気を上げる。
健太は、慎重にケトルを持ち上げ、まず豆全体を湿らせるように少量の湯を注いだ。
湯が触れた豆は、プクッと小さな泡を立てて静かに蒸されていく。
その膨らみを見つめる時間は、健太にとってかけがえのない、心が満たされる安寧の瞬間だった。
蒸らしを終えると、健太は湯が切れないよう、しかしゆっくりと、円を描きながら注ぎ進める。湯が落ちる音、コーヒーの香ばしい匂い。
健太の中に安堵感が広がる。
沸騰したお湯の入ったケトルをスポーツスター2から下ろし、少し落ちつかせた後に、手際の良い一連の動作で健太はコーヒーを淹れた。
カップを手に、貞時の隣に座る。
「コノちゃん、ひとまずコーヒーでもどう?」
貞時が持っていたペットボトルのお茶を置いて、カップを受け取った。
「ありがとうございます!父とキャンプはしていましたが、ソロは始めたばかりなので、健太さんの手際の良さに憧れます!」
「はは、ありがとう。ストーブは特訓したからね(笑)」
健太は笑った。ストーブは**「懺悔の特訓」、設営は「経験による成長」。
どちらも、以前の自分には足りなかった「堅実さ」の産物だった。コーヒーは、あの炎上の時のような罰の味**などしない。ただ心地よく、安堵の味がした。
二人はコーヒーを飲み終えると、テント内にマットやシュラフを運び入れ、今夜の寝床作りをした。
作業が一段落し、時計が16時を過ぎた頃。
貞時が受付で購入した薪の束を指差した。
「健太さん、次は焚き火の準備をしたいんですが...実は、薪割り、僕まだ慣れてないんです。力任せになっちゃって。よければ、コツを教えていただけませんか?」
貞時からの、肩書き抜きの素直なリクエストだった。
健太は、以前なら「特別な道具」にこだわる自分なら、薪割り一つでも見栄を張っていただろうと感じた。
しかし今は、心から快く頷いた。
「もちろんいいよ。この薪、針葉樹だし、節が少ないから割りやすいはずだよ。」
健太は鉈(なた)を手に取り、刃の入れ方、力の抜き方といった**「普通の技術」**を貞時に教えた。
貞時が真剣な表情で、言われた通りに鉈を振り下ろすと、「パカッ」と気持ちの良い音を立てて、薪がきれいに割れた。
「あ!僕にもできました!ありがとうございます、健太さん!」
貞時が本当に嬉しそうに笑った。
その様子を見ながら、健太は、ふと、スポーツスター2を庭で磨いている時に、子どもたちが声をかけてきたことを思い出した。
「実はさ...庭でストーブ磨いてたら、子どもが寄ってきて。『パパ、これでココア飲みたい!』って言われて。道具の価値は、誰かに認められることでも、特別な炎を灯すことでもないんだなって、初めて分かったんだ。」
健太の**「特別な憧れ」(エマ・ストーン=依真)と、真衣の「特別な情熱」(リーアム・ニーソン=理愛夢)が、「家族という普通な特別」**に昇華していた事実に、健太はようやく気づき始めたのだ。
薪割りの音と、木の良い匂いがサイトに満ちる。
二人が焚き火の準備を終える頃、6月の強い日差しが傾き始め、サイト全体が橙色の優しい夕暮れに包まれた。
二人は焚き火台に薪を並べ、静かに火を灯した。
パチパチと薪が爆ぜる音が、静かな会話を際立たせる。
貞時(コノちゃん)が、焚き火の小さな炎を見つめながら、静かに口を開いた。
「僕、健太さんが、スベアを手放してコールマンのスポーツスター2にされた話を聞いて...実は、すごく納得したんです。」
健太は驚いて貞時を見た。
「納得した、って...どういうこと?」
「僕...生まれた時から、周りの目線がずっと気になっていたんです。近衛家の一員、由緒正しい家柄って。だから、僕が選ぶ道具や行動すべてが、その『特別』の裏付けみたいに見られるのが、ずっとコンプレックスでした。」
貞時は、ランクル70の後ろにある、派手さのないコールマンのクーラーボックスを指さした。
「父がコールマン好きで、僕も受け継いでますが、これも**『堅実』『普遍的』という安定**を選んでるんです。高価なだけの道具や、**扱いが難しく、周囲の目を意識してしまうような『特別な道具への憧れ』**を追い求めるのは、その『特別』なイメージを強化するようで、怖かったんです。」
「だから、健太さんが、一度『特別なものへのこだわりを手放し』て、『安定』と『普遍』のコールマンを選び直したと知って、すごく腑に落ちたんです。ああ、特別を脱いで、普通を選んでも間違いじゃないんだって。」
貞時からの、予想だにしない告白だった。
健太は、自分と同じように「特別」の呪縛に苦しみ、そして「普通」の道を選んだ仲間が、すぐそばにいたことに気づいた。
その瞬間、健太の心に残っていた、ワルキューレのキーに対する最後の未練が、音を立てて砕け散ったような気がした。
「そうか...オレだけじゃなかったんだな。」
健太は、焚き火の炎を見つめ直した。
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