第3話 夢の行き止まり

 最初に絵を褒められたのは、小学生のときだ。

 ノートの隅に描いた笑顔に、先生が「上手ね」と言った。

 その一言で、放課後の教室が特別になった。

 夕方の光、消しゴムの粉、紙の白。

 鉛筆を動かすだけで、世界に入口が開くように思えた。


 その頃、算数も得意だった。

 黒板の数字が並ぶと、自然に答えの形が浮かんだ。

 計算は迷わず、正解が出る。

 数字は裏切らない。

 努力がそのまま結果になる世界。

 だからこそ、絵を描く時間はどこか危うく感じた。

 上手くいく保証もなく、正しさもない。

 それでも、描いているときだけ心が自由だった。


 子どもが好きだった。

 給食当番の時間、低学年の子のエプロンを結んでやると、

「ありがとう」と笑ってくれた。

 その笑顔が、なんとなく嬉しかった。

「大きくなったら、保育士さんになりたい」

 小学生の私がそう言うと、先生は優しくうなずいた。

「きっと、いい先生になれるよ」

 その言葉が胸に残っていた。


 ――時間は過ぎ、小学校の算数は数学に、鉛筆はシャープペンに変わった。

 中学生になると、漫画を描くことに夢中になった。

 友達に勧められた雑誌を読み、模写をして、構図を研究した。

 最初は「漫画が好き」だったのが、いつの間にか「描くのが好き」に変わっていた。

 描きたいシーンが頭に浮かぶたび、ノートの端に線を走らせた。

 夜、窓の外が暗くなるころ、机の上だけが小さなステージだった。


 高校に入ると、夢ははっきりした。

 ――漫画家になりたい。

 美術室でそう口にすると、友人たちは少し驚いた顔をした。

「すごいじゃん」とは言ってくれる。

 でも、その声の奥には現実を思い出させるような色があった。

「難しいよ」「運だよ」「才能いるよ」

 励ましと忠告の境界に立つ言葉たち。

 それでも私は、諦めなかった。


 けれど、家でその話をしたとき、

 父は新聞をたたみ、静かに言った。

「食べていけるのはほんの一握りだ」

 母は困ったように笑った。

「あなたは勉強が得意なんだから、大学に行きなさい」

「保育士も悪くないけど、苦労するわよ」

 その言葉たちは、心配と愛情でできていた。

 でも、私の胸には重く響いた。


 私は勉強を続けた。

 数学の問題を解くたびに、ほっとした。

 答えが出る。式が正しい。そこには裏切りがない。

 正確な数字の並びは、人生の安全地帯のようだった。

 やがて教師も言うようになった。

「理数系ならどこでも通用する」「もったいない」

 褒め言葉なのに、どこか冷たく聞こえた。


 ――保育士になりたい、と口にしたのは、その少し後だった。

 進路相談でそう言うと、先生は一瞬だけ黙り、笑って言った。

「優しいし、向いてると思う。でも、せっかくの学力が……」

 クラスメイトも、似たような反応だった。

「保育士か……大変だよ」「給料安いし」

 悪気はない。現実を知っているだけ。

 それでも、胸の奥に小さな棘が刺さった。

「似合うけど、もったいない」

 その一言が、夢を遠ざける合図になった。


 進路希望票の“第一志望”の欄に、

「教育」と書いて消し、「文学」と書いて消し、

 最終的に「理学部」と書いた。

 ペン先の震えが、紙の下で小さな音を立てた。

 父母は喜び、先生も頷いた。

 しかしペンの音は泣いていた。

 誰も気づかないほど小さく、確かに。

「いい選択だ」と言われるたび、

 何かを一枚ずつ脱いでいくような感覚がした。


 大学に入り、日々は整った。

 レポート、テスト、アルバイト。

 予定表が埋まっていくたびに、安心を覚えた。

“やること”が“できること”に変わるたび、

 私は世界と仲直りしている気がした。

 けれど、どこかで息が詰まっていた。


 気づけば卒業していた。

 就職活動も無難に終わり、気づけば社会にいた。

 安定した日々。けれど、心のどこかに小さな空白が残った。


 SNSに載せた最後の落書きは、いいねが少しだけついた。

 その数は、当時の私を支えるには足りなかったが、

 今の私の記憶には、十分すぎる。

 通知の光が消えるたび、昔の夢も少しずつ静まっていった。

 アプリを閉じるたび、指先は何も握っていないことを覚える。

 それは敗北でも勝利でもなく、ただの選択の結果だ。

 選んだ側に立つための、静かな手続き。


 社会人になり、生活は整った。

 定時に家を出て、ぎゅうぎゅうの満員電車。

 帰りは不規則。日によっては終電になる。

 それでも、冷蔵庫には余計なものを買わず、家賃も滞らない。

 休日は洗濯をし、布団を干し、観葉植物の葉を拭いた。

“理想の大人”の輪郭に、ようやく自分が合ってきた。

 それは悪くなかった。むしろ誇らしかった。


 ただ、夜、机の木目をなぞる癖だけが残った。

 なぞると落ち着く。けれど、落ち着きは熱ではない。

 描くことも、子どもと過ごすことも、

 いまは遠くにある。けれど、完全には消えない。


 春の夜、古いスケッチブックを開いた。

 ページの角は丸くなり、鉛筆の粉が薄く匂った。

 拙い線。うまく描けていない手。

 でも、どのページにも小さな光があった。

「ここ、好きだったんだな」

 声に出さずに呟き、そっと閉じた。

 その手つきは、敗北ではなく、生活の所作のようだった。


 ――そして、今。

 電子書籍の画面の中で、誰かの線が生きている。

 私が届かなかった場所まで、滑らかに、確かに。

 その事実に触れると、喪失は痛みから温度に変わる。

 私は描かない。

 けれど、誰かが描いてくれる。

 あの日の続きを、やさしい線で。


 それだけで、世界の音が少し戻った気がした。

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