第2話 夢の欠片

 日々は、よく整っていた。

 七時に目覚ましが鳴り、カーテンの隙間から射し込む光が部屋を起こす。

 洗面台の鏡は曇っておらず、タオルは昨夜のうちに替えてある。

 ケトルの音、パンを焼く匂い、冷蔵庫の規則的なモーター音。

 何もかもが、予定通りに動いていた。


 駅までの道。

 街路樹の若葉が朝の光を受けて揺れる。

 信号の色が切り替わるリズム、靴底の規則的な音。

 そのすべてが「日常」の証のように思えた。

 改札を抜け、電車に揺られる。

 吊り革は同じ位置で揺れ、車内の空調が一定の風を流す。

 窓に映る自分の顔は眠そうだが、疲れすぎてもいない。

 会社に着けば、メールを返し、資料を整え、会議を終わらせる。

 昼休みにコンビニのパンを買い、定時を過ぎたら家へ帰る。

 すべての時間が、等速で進んでいた。


 不満はない。

 何ひとつ困ってはいない。

 けれど、夜に灯りをつけるたび、胸の奥に“風の穴”のようなものが開く。

 部屋は整い、食器は乾き、洗濯機は静かに止まる。

 けれど、その静けさの中に、自分だけが取り残されているような感覚。

 生きているのに、生きていない部分が一か所だけ残っている。


 そんな夜、何となくスマホを開いた。

 タイムラインには他人の生活。

「効率」「ライフハック」「幸せな朝」。

 そのどれもが私に似ていて、どこか遠かった。

 指先が惰性で動き、電子書籍アプリを開く。

 実用書ばかりが並ぶ画面を、意味もなくスクロールする。


 そのときだった。

 画面の下の方で、柔らかな光がふっと差し込んだ。

 白い表紙。

 丸い頬をした女の子が、

 チケットで口元を隠しながら、隣の席の“推し”を見つめている。

 肩にかけたカバンには、無数のグッズやバッジが揺れていた。

 表情の描き込みが驚くほど細かく、

 その目の動きひとつで、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 線は細く、どこまでも優しい。

 無理に可愛さを作ろうとしていないのに、

 どのコマにも“好き”の密度がある。

 カフェの湯気、風に揺れるスカートの裾、

 通り過ぎるモブの顔――

 そのすべてに、作者の目が届いている。


 女の子が笑うたび、ページの外で風が吹くようだった。

 何気ないアルバイトのシーンなのに、

 その一瞬が“生きる”ということの全部に見えた。

 そんな絵を、自分もいつか描きたかったのだと思う。


 タイトルは――

 最近の流行らしい、少し長めのタイトルが添えられていた。

 白と光のあいだで、言葉が呼吸している。

 胸の奥が、ふっと温かくなった。

“こういう絵が、好きだったな。”

 小さく呟いた声が、部屋の空気に溶けていく。


 スマホを伏せ、深呼吸をひとつ。

 胸の内側に、懐かしい灯がともる。

「また、描きたくなるような絵だ」

 そう思った瞬間、指先が自然に画面へ戻っていた。


 ――そして、その漫画を読み終えるころには、

 もうひとつの作品が“おすすめ”欄に現れていた。


 表紙は一転して暗く、灰色のトーンが背景を覆っている。

 線は柔らかい。けれど、かわいさの中に不穏な気配が漂っていた。

 タイトルのフォントは鋭く、光を跳ね返している。

 けれど中央では、丸い顔の幼女が涙目でこちらを見ていた。

 その瞳の中に、驚きと健気さが同居している。

 思わず指が止まった。


 作風の説明欄には、

《拷問を頑張る幼女のギャグ漫画です》とあった。

“拷問”という言葉に一瞬たじろいだが、

 ページを開くと、それはむしろ優しい世界だった。

 トゲのついた鎖も、鉄格子も、不穏な世界そのものだ。

 しかし、残虐さと温もりが共存していて、独特の雰囲気を醸し出している。

 泣き顔のコマの後に、ふっと笑えるオチがくる。

 痛みは描かれているのに、どこか救われる。

 可愛らしい線が、それを“笑ってもいい痛み”に変えていた。


 少女の涙は、苦痛ではなく決意の形をしている。

 鎖のきらめきさえ、光を宿していた。

 作者の線は、痛みを描いているのに、なぜか“癒し”の方へ向かっていた。

 ページをめくるたび、胸の奥が静かに震えた。


 たしかに、少しアブノーマルな漫画だった。

 普通の人から見れば“変わっている”と言われるかもしれない。

 けれど私は、ページをめくる手を止められなかった。

 ――これは、まるで私の好きなものを描いてくれているみたいだ。

 誰にも理解されないと思っていた“好き”の感情。

 その形を、この人はちゃんと絵にしてくれている。


 たぶん私は、少数派なのだろう。

 子どものころから、みんなが好きなものより、

 少し変わったものに惹かれてきた。

 それでも、この作者はそんな自分の心の空白を、

 ためらいもなく埋めてくれる。

“わかるよ”と言わなくても、わかってくれている気がした。


 彼女は、痛みを描くことを恐れていない。

 それは、痛みに強いからではなく、

 その中に愛を見つけられる人だからだ。

“好き”という言葉の中には、

 優しさだけでなく、痛みを抱く力もある。


 彼女は、きっと隠さない人だと思った。

 日常も、夢も、痛みも――全部まとめて描く。

“好き”という言葉を、一度も裏切らない人。

 だからこそ、彼女の線はどこまでも優しく、どこまでも強かった。


 画面の端に作者コメントが載っていた。

「“好き”は、時々こわい。けれど、一番たのしい。」

 その短い一文に、息が詰まる。

 私は、この言葉を言えなかった。

 怖くて、諦めて、生活を選んだ。

 けれど今、画面の中でその言葉が生きている。

 胸の奥で何かが音を立ててほどけていく。


 アプリを閉じても、光は残っていた。

 部屋は静かだったが、もう冷たくはなかった。

 画面を閉じたあと、天井の灯りを見つめる。

 何も変わっていないはずなのに、

 空気の奥に“まだ描かれていない線”の気配があった。

 その見えない線を追いかけながら、私は目を閉じた。


 ――好き、という言葉の形を、思い出した。


 その夜、私は久しぶりに夢を見た。

 白い紙の上で、線が一本、すっと引かれていく夢だった。


 その線の向こうに、まだ見ぬ“誰か”がいる気がした。

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