夢は誰かの手で続いていく

とろ

第1話 夢のぬくもり

 私はもう描かない。

 けれど、彼女が描いてくれる。

 あの日の続きを――やさしい線で。


 サインをもらった本を受け取る。

 表紙のインクはわずかに湿っていて、指先に微かな温度が残った。

 それは、まるで夢の体温のようだった。

 小さな会場の照明が紙面を照らし、光の粒がインクの面に揺れている。

 ほんのわずかな反射のきらめきに、私は目を奪われていた。


「がんばってください」

 言葉にしてみると、自分の声がかすかに震えた。

 彼女は顔を上げ、驚いたように目を瞬かせてから、

 ゆっくりと、確かめるようにうなずいた。

「はい。がんばります」


 その声の柔らかさに、胸の奥で何かがほどける音がした。

 私はもう夢の側にはいない。

 けれど、夢の側に立つ誰かを、まっすぐに応援できる場所にいる。

 それで、もう十分だと思えた。


 会場の奥では、紙の擦れる音やペンの走る音が混ざり合っていた。

 レジの電子音、スタッフの控えめな呼び声、

 そのすべてが日常の音なのに、どこか遠くの出来事のように感じられた。

 列はゆっくりと進み、彼女は一人ひとりに丁寧に言葉を返していた。

 袖口からのぞく手首には薄くペンだこがあり、

 そこに時間の厚みが宿っていた。

 描くということは、積み重ねの証だ。

 私はその小さな証拠を見つめながら、

 あの頃、自分の指にも同じような痕があったことを思い出した。


 書店を出ると、外の光がやわらかく目に沁みた。

 春の風が頬を撫で、まだ乾ききらないインクの香りをさらっていく。

 街路樹の若葉が陽を透かして揺れ、

 どこかで子どもが笑い声を上げていた。

 私は人の流れの隅で立ち止まり、本を胸に抱いた。

 カバーのツヤが夕方の光を受けてきらりと反射し、

 表紙の少女が一瞬、本当に微笑んだように見えた。


 ――ありがとう。

 あなたが描いてくれたおかげで、私の夢はまだ生きている。


 その言葉は喉の手前でほどけ、空気に混ざって消えた。

 けれど、胸の奥では確かに響いた。

 彼女の線が紙の上を走るたび、

 夜の机の上に広げた紙の感触が、記憶の底から浮かび上がる。

 白い紙、鉛筆の乾いた匂い、消しゴムの粉。

“もう描かない”と決めたその手が、今も小さく疼いた。


 夢は、痛みをともなう。

 けれどその痛みの中には、いつか確かに存在していた“熱”がある。

 彼女の作品を手にした瞬間、

 その熱がまた身体の奥にゆっくりと戻ってきた気がした。


 涙がこぼれた。

 悲しいからではない。

 やっと手放せたものに、ようやく安らぎを覚えたからだ。

 夢を諦めたのではなく、

 託すという形で、夢が新しい場所へ移ったのだと理解できた。

 それを教えてくれたのは、彼女のやさしい線だった。


 電車に乗る。

 ドアが閉まり、車体が静かに動き出す。

 膝の上に本を置くと、表紙がわずかに揺れた。

 窓の外で街の光が流れ、アナウンスの声が遠く響く。

 私は本の角を指でなぞった。

 インクの跡が紙の繊維に小さな段差をつくっている。

 指先に伝わるのは、印刷の均一な滑らかさではなく、

 何度も線を引き、消し、また引いた人の時間の厚みだった。


 その時間を想うと、不思議と呼吸が落ち着いた。

 描くことはもうできなくても、

 誰かが描き続ける限り、あの頃の私もどこかで生きている。

 ページの中で、線が光を探している。

 彼女の手の中で、かつての私の夢が新しい輪郭を得ている。

 その事実が、静かに胸を満たした。


 夢は、終わらない。

 誰かに託されても、ちゃんと続いていく。


 次の駅のアナウンスが流れる。

 私は本を閉じ、胸に当てた。

 指先の温度が肌に馴染み、鼓動と同じ速さになっていく。

 世界はいつも通りだ。

 それでも、ほんの少しだけ軽い。

 風がやさしい。光が、自分のためにも照っている気がした。


 改札を抜け、地上に出る。

 街の灯りが滲み、どこかの窓辺でラジオの音が漏れていた。

 私は歩きながら、胸の中で言葉をそっと置いた。


 ――ありがとう。


 声にしなくてもいい。

 届くべき場所に届くように、丁寧に。

 私の夢は、もう私ひとりのものではない。

 あの人のやさしい線の先に、静かに続いている。


 その確かさを抱いたまま、

 私は夜の街を歩いた。

 春の風が髪をすくい、光の粒が遠くで瞬く。

 夢の体温は、まだ指先に残っている。

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