理解できない。

チャイムを押す指先が震えた。

 「……渉、ちゃんといるよね」

 自分に言い聞かせるように呟き、扉の向こうに心を整えた。


 ガチャリ、と音がして扉が開く。

 そこに立っていたのは……渉だった。


 目の下にくっきりと影が落ち、髪も服も乱れ、表情は抜け殻のよう。

 でも、桜典の顔を見た瞬間、驚きが光り、

すぐに嬉しそうに笑う。

 その笑顔の頼りなさに、胸が締めつけられる。


 「渉……!」

 そう言った瞬間、後ろから声が飛んだ。


 「渉!!あれだけ言ったのに桜典くんを呼んだの?!」

 両親が現れ、怒鳴り声に桜典の心臓は一瞬止まる。


 けれど、桜典は迷わなかった。

 手を伸ばし、渉の腕を引っ張る。

 「ごめんっお願い……出て!」


 渉を家の外へと連れ出す。

 両親の視線が背中に刺さる。けれど、桜典の中で抑えきれない想いが渦巻いていた。


 「俺っ、渉がいないと、どれだけ苦しいか、分かってるんですか!」

 必死に声を振り絞り、涙が頬を伝う。

 空気が震えるほどの叫びに、渉は桜典の腕にしがみつく。


 「お願い……お願いです、わかってください!渉を、俺から引き離さないでください!俺は……渉がいないと!」


 声を張り上げる。涙が頬を伝い、足元の地面まで震えるような力で叫ぶ。

 「渉がいない間サロンで必死に笑顔作って…でも、閉店したらその度に、渉のことを考えて…あんなに辛い思いをするなんて、もう……もう嫌です!」


 桜典は両手で渉の腕を強く握り、体ごと訴える。


 「お願い……お願いだから、お願いだからっこれ以上渉に手を出さないでください!お願いだから……渉をもっと信じて…」


 その声に、渉の両親は言葉を失う。

 「…私達は、なんてことをしてしまったんだ……」


 焦燥と後悔が交錯し、渉の腕に触れられない自分たちを責める視線が、桜典の必死の訴えに飲み込まれる。


 渉は目を閉じ、桜典の震える手を強く握りしめる。


 長い沈黙の後、桜典は深く息をつき、

 心の中の恐怖も、焦燥も、ほんの少しだけ消えた気がした。


渉と桜典は、両親の心配もあって、

そのまま自宅のリビングに呼ばれていた。


 渉はいつも通り…それとも演技なのか、

涙袋で目が隠れるくらいの柔らかな微笑を浮かべていたが、桜典は少しだけ肩をすくめ、落ち着かない様子を隠しながら隣に座る。


「何もしないから、ただ話をしたいんだ」

 渉の父が穏やかながらも真剣な口調で切り出す。母も頷きながら、静かに見守る。


桜典の腕や足首に見える小さな傷を、母は無言で見つめる。その目には、不安と恐怖が入り混じっていた。

「……正直、桜典くんの体の傷を見て、少し驚いたの、渉……昔、暴力的だったことがあったでしょ、それが戻ったのかってほんとに怖くて……」

 母の言葉は渉に向けられつつも、桜典の不安を含んでいた。


渉は桜典の手にそっと触れ、顔を見合わせる。

「……焦ったんだろ、俺がまた昔みたいに……って。でも、もう大丈夫だ。」


 桜典も小さく頷き、声を落ち着けて言う。


「はい。これは、俺たちの合意の元です。渉と俺の間には、ちゃんと愛があります」


両親は目を伏せ、少しの沈黙。やがて母が深く息をつき、静かに口を開く。


「……私達には、多分これからもきっと傷の意味は理解できない。でも…あなたたち二人を信じることにする。もう、安心して自分たちの家に帰っていいからね」


 父も同意するように頷き、渉の肩にそっと手を置いた。


渉と桜典は互いに視線を合わせ、心の底から安堵の笑みを浮かべる。

 渉は少しだけ桜典を抱き寄せ、唇の端に微笑みを残した。桜典も肩に頭を預け、温かさを噛みしめる。


「やっと……穏やかに帰れるな」

 渉が柔らかく囁くと、桜典は微笑みながら頷く。

「うん、家に帰ろう。二人で一緒に」


二人は手を取り合い、リビングを後にした。

 外に出ると、夕陽が差し込み、街は穏やかに色づいていた。

 どこか重かった胸の奥も、今はすっと軽くなった。二人は心から笑い、家路へと歩み出した。


渉と桜典が自宅へ戻った後。両親はリビングに残され、静まり返った家の中で、母親の胸には複雑な感情が渦巻いていた。


「……痛みが、愛?」

母親は膝を抱えて座り込み、嗚咽混じりに小さくつぶやく。理解できない感情が胸を締め付け、涙が止まらなかった。


息子を理解できないのがこんなに辛いのか。


父親も黙って母の肩に手を置き、ただ静かに寄り添う。


そのとき、玄関のドアが勢いよく開いた音がした。


「ただいまー!」


東京から帰ってきた渉の姉が元気に現れた。金髪のセンター分けボブ、ギャル風の短いスカートにお腹の見えるトップス。歩きながらスマホをいじっている様子は、普段の軽快さそのままだ。


「あれ……?」

姉は玄関で立ち止まった。リビングから聞こえる嗚咽に気づき、眉をひそめる。


嫌な予感がしてリビングに向かって走る


玄関に入った瞬間、母親の顔が見えた。頬は涙で濡れ、膝を抱えて泣き崩れている。


駆け寄るように声をかける、

「ママ?何があったの?」


「……澄」

父親も声を落とし、何が起きたのか説明しきれずに黙ったまま。


姉は一歩踏み込むと、両親を見比べ、焦った様子で言った。

「渉と……桜典くん、さっき家の前ですれ違ったんだけど…もしかしてこの2人?」


母親は嗚咽を漏らしながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を姉に向ける。


「わからないの……痛みと愛が同時にあって……もう、私には理解できない……」


姉は唇をかみ、目を丸くしてしばらく母を見つめた。


「……え、ちょ、待って、どゆこと…?」


普段の軽やかさとは裏腹に、声に焦りが混じる。家の中に流れる緊張と、母の涙が、姉を一気に現実へ引き戻した。


姉はそのまま母の肩に手を置き、落ち着かせようとする。

「ねぇ、ママ落ち着いて……一体、何があったの?ちゃんと話してくれる?」


母は嗚咽を続けながらも、姉の声に少しずつ意識を戻す。

父親も息をつき、やっと口を開く。

「……渉と桜典くんが、あの子たち…」



説明を聞いた姉は一瞬絶句した。ギャル風の外見の奥で、目は真剣そのもの。

「……それって…桜典くんに何かあったの?渉が?」

母は首を横に振る。


「いいの……でも、あの子たちのことを信じるしかないのよ」


姉は深く息をつき、母を抱きしめながら小さく頷く。


「……んーわかった。じゃあ、とりあえず、あたしが二人に会って様子を見て判断してみるよ、もうママ達は無理して首突っ込まなくていいよ」


玄関の外には、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。


家族の間に残る不安と、渉と桜典への信頼。複雑な感情が混ざり合い、静かな時間が流れる。

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