第7話 監視される教室
七階の扉は、学校の扉とほとんど同じ重さで開いた。蝶番が短く鳴り、乾いた廊下の匂いと、チョークの粉の匂いが一気に肺に降りてくる。教室は旧式だった。黒板、教卓、引き出しのついた机と回転しない椅子。窓はあるが、曇りガラスで景色は塗りつぶされている。蛍光灯は一本だけ黒ずみ、点ったり消えたりをくりかえす。その瞬きが、心臓の鼓動とずれるたび、胸の奥が変に空回りした。
黒板の中央には、太い白でこう書かれている。
模範授業
文字の輪郭は新しく、粉がまだ縁に残っている。黒板消しでこすった跡の向こう、隅に薄い線の影が読めた。以前の文字が消し切れていないのだ。レンは視線をずらす。そこには、にじんだ書き残しがあった。
自由とは、選びたくないものを選ばされる力である
読み終えると、喉の奥がひとりでに乾いた。言葉は粉の下に咳き込むように眠っていて、呼吸ひとつで表に出てくる。粉の粒が舌に触れた気がした。
「着席してください」
スピーカーが天井から言った。教壇上、時計の位置に埋め込まれた目に見えない口。ここでは声がいつも上から降りる。全員は自然と、元のクラスの癖で自分に近い席に散った。机は十五脚のまま。美雨のための椅子、結のための椅子が空いている。空席という形が実在することを、初めて知る。空席は、そこに座った誰かより重い。
教卓の上には、紙の束が置かれていた。砂色の表紙、角はすでに少し丸くなっている。表紙にはいくつかのハンコが押されていた。認可、決裁、回覧。朱の丸の中に省庁の略号。日付は、最近のものも、古いものも混ざっている。誰の名前もない。押した人の名前はどこにも見えない。あるのは印影と日付だけ。決めた者の顔の代わりに、朱の輪だけが残るのは、奇妙な寒さを運んだ。
「資料を配布します」
教卓脇の棚から、紙を配る機構がガタンと動き、白い束が机ごとに落ちてきた。レンの机にも載る。紙の匂いは新しく、しかし触れると手触りに古い繊維のざらつきがある。めくると、統計の表が並んでいた。折れ線グラフ、棒グラフ、年代別、地域別。「受講生数」「脱落率」「合格ラインに達した者の割合」。用語は事務的だ。数字は冷たい。冷たさは、触るほど手の中で温度を奪っていく。
「本プログラムは、省庁認可の『倫理適性評価・再教育』の試行として始まりました。目的は若年層の逸脱行動抑制と、集団内道徳の可視化です」
スピーカーが、今日に限って言葉を増やした。声の平坦さはそのままなのに、奥の方で誰かが紙をめくる音が混ざっている。目に見えない手が、説明台本を追っているような音。
「評価は多面的に行います。個々の自己申告による修復可能性の測定、匿名集団評価によるリスク感度の調整、資源配分時の協働適性の検査。最終的に、二十五階に到達した者は『適応者』として社会復帰の道を開くとします。以上」
二十五、という数字が白く遠い。そこまで行けば、外の白は塗料ではなく光になるのだろうか、と考えて、レンは首を振った。考えない方がいい。考えるほど、足元が軽くなる。軽さは油断だ。油断は、階段の途中で一番危ない。
甲斐斗が紙をめくる。彼の指先はいつも乾いている。指紋が見えないほど乾いているのに、紙は難なくめくれる。資料にはさらに、過去の受講生の簡単な記録があった。年齢、性別、参加動機(推定)、脱落階。結果に至るまでの傾向。空欄は多い。空欄の方が信頼できる気がするのに、ここでは埋まっている項目が評価に使われる。
剛は腕を組み、笑った。「合格ライン、ね。点数のない試験で、ラインだけ先に見せられるのは、気持ちが悪い」
「点数はある」
甲斐斗が答える。「可視化されていないだけだ。可視化すると抵抗が生じる。ここでは、抵抗を最小化する設計になっている」
「設計者、か」
蒼衣が小さく笑った。笑い疲れた人の笑い方。頬の筋肉だけが少し動き、目の奥は休まない。「誰が提案して、誰が予算をつけて、誰が壁を塗り直して、誰が今も電源を入れているのか。顔は出ないのに、決裁印だけは元気」
教室の最後列には、端末ラックがあった。金属製で、キャスターが錆びている。埃が層になって棚を覆い、蜘蛛の糸が天板から垂れていた。レンは引き寄せられるようにそこへ歩いた。誰も止めない。誰もが自分の資料に目を落としているふりをしながら、ラックの方の音に耳の一部を向けている。
ラックの側面には、手書きのラベルが貼ってあった。公開用、保管用、授業素材。ラベルの端は黄ばんで、角がめくれかけている。引き出しを一段ずつ開けていく。乾いた紙の匂いと、かすかなカビの匂い。指先に粉がわずかに付着する。三段目の奥、クリアファイルに挟まれた紙束に目が止まった。表紙には黒のペンで殴り書きがある。
公開収録 企画書/教育番組・教材用途
背筋の筋が固くなる。レンはそれを机に運び、そっと開いた。紙は薄い。薄い紙に、濃い企画が載っている。
——収録方針:「倫理適性評価・再教育」プログラムの実施過程を、匿名化処理の上で教材として配信する。視聴対象:教員研修会、学校評議員、保護者団体。目的:道徳教育の再設計に資する。収録体制:固定カメラ+定点マイク。編集配信:週次、テーマ別。リスク:被験者への影響(要モニタリング)
横には、小さな付箋。色はあせた黄色。
——顔がある人に見せることが重要。匿名より、顔出しの善意が抑止力になる。
蒼衣が肩越しにのぞき込み、目だけで笑った。「匿名の悪意より、顔出しの善意のほうが、時に怖い」
声は掠れているが、芯があった。彼女は知っている。顔を出して正しさを語る人たちの、画面越しの熱を。熱いものは、触れている間は安心に見えるのに、離れた後の痕が深い。
他にも、番組の構成案があった。第一回「選択教育の導入—幸福か責任か」、第二回「履歴公開の倫理」、第三回「匿名評価の効果と限界」、第四回「懺悔の教育効果」、第五回「救済の意味—外部と内部」。題名だけで、誰がここの階段を設計したのかの思想が透ける。授業。模範。観察。評価。わかりやすい言葉に、息が詰まる。わかりやすさは、刃を隠す布になる。
「なあ」
剛が教卓から顔を上げ、手をひらひらさせた。「二十五階に到達した者は『適応者』として社会復帰の道を開く、って書いてあるけど……開かれた先は、どこだ?」
「社会」
甲斐斗が短く答えた。「君が知っている『社会』という言葉の中に、ここで作られた指標が組み込まれる。それは『復帰』ではなく、『編入』だ」
言いながら、彼の視線は黒板の隅に落ちていた。自由についての、あの言葉。選びたくないものを選ばされる力。自由の定義を裏返したその文は、チョークの粉の下から何度でも浮かび上がろうとしている。
資料の最後に、合格ラインの具体的な記述があった。数値化された「適応指数」のシート。正答率、協調率、反抗値、沈黙耐性、責任受容。どれもスコア化され、小さなグラフに還元されている。そこには名前はないが、番号があった。A-03。A-01。A-05。番号の横の小さな印。上向きの矢印。下向きの矢印。保留、と薄い字。
レンは急に、指先が冷たくなった。観察ノートの紙が、膝の上でわずかに震えた。ここまでの「見たものだけ」「測れるものだけ」という自分の線引きは、ここでは設計の一部に取り込まれてしまう危険がある。観察が監視に吸い寄せられ、ノートが評価票に劣化する危険だ。
「レン」
蒼衣が呼んだ。彼女の声は、机の木目の上で小さく跳ねて消えた。「顔のある善意の方が怖い、って言ったのは、わたし、自分の身からも、知ってるから。『良かれ』が一番重い。重いから、殴られたと気づきにくい」
教室の後ろの壁には、テレビがかかっていた。古いブラウン管。電源は切れている。画面に斜めの白い傷。レンはその黒い鏡に、自分たちの影がゆがんで映っているのを見た。影は人数分あるが、二つ分の影が細く、薄い。美雨と結の席の位置に影はない。ブラウン管の角に積もった粉だけが、人数の差を語る。
「質問」
甲斐斗が手を挙げ、スピーカーに向かって言った。授業の形式に従うように。「本プログラムの設計者は、誰ですか。提案者、決裁者、予算の付与者。追認した審議会の名簿。監督部署の責任者名。公的情報のはずだ」
珍しく、スピーカーはすぐに答えない。天井の奥で、電子の虫が這うようなノイズがした。次いで、紙をめくる音がもう一度。ようやく、声が落ちてきた。
「実名は伏せられています。情報は分割保存され、相互に匿名化されています。本授業では、決裁印と日付のみを提示します」
「顔を隠して、顔のある社会に配信したの」
蒼衣が呟く。呟きは、誰にも届かないふりをして、全員に届いた。
レンは端末ラックの引き出しをさらに探った。ファイルの底に、薄いDVDが数枚あった。盤面に手書きの文字。「研修会ダイジェスト」「教材・模擬討論用」。指で持ち上げると、静電気が少し鳴る。再生する機械はない。あるいは、ここで再生されないようにわざと合わせていないのかもしれない。代わりに、印刷されたスクリーンショットが一枚出てきた。広い会議室。スクリーン。笑顔の教員。壇上の司会者。字幕。「本日は新たな倫理教育の実践をご紹介します」。拍手。顔ははっきり写っていて、名前のプレートまで見える。顔のある社会。彼らの目は明るい。拍手の音は聞こえないのに、手の動きのリズムが耳に入り込んできた。
「拍手は、ここまで届く」
レンが言った。自分でも自分の声を、久しぶりに聞く気がした。「拍手は、いつも音だけじゃない。リズムが残る。リズムに合わせて人は動く。ここでは、そのための譜面を用意してある」
黒板の前に立つと、粉の匂いがさらに濃くなる。レンは消し残しの言葉に指を伸ばし、そっと触れた。粉が指の腹に移る。指先が白くなる。白は、落ちにくい。落とそうと拭うと、肌の皺に入り込む。
「授業をはじめます」
スピーカーが言った。黒板の別の場所に、白い文字がひとつ増える。設問。
——問。倫理とは集合の平均か、個人の閾値か。
甲斐斗が、すぐに反応する。「平均は、極端を切り落とすことで安定を得る。閾値は、個人の内側の境界で、時に集団と反する。ここでは平均が採用されている」
「平均に従わない人は?」
蒼衣が続ける。「『調整』される。あるいは、『保留』になる。あの張り紙みたいに。保留は、いつか削除に変わる。削除は、救済の顔をする」
教室の空気が、じわりと冷えた。冷えていく速度は、目では測れないが、皮膚が確かめる。千景がひとつ咳をした。彼女の咳は、すぐに収まったが、喉の奥の乾きが長く残る種類の音だった。
レンは観察ノートを開いた。罫線が少し曲がって見える。粉が紙に落ち、点々を作る。書く。書くことが、紙を守る唯一の方法だ。
——設計者の顔は出ない。だが、顔のある社会に向けて配信される。拍手のリズムは、設計の一部になる。平均は、刃が丸い顔をしている。丸い刃は、深く入る。
ペン先が一瞬止まり、また走る。ノートの紙は薄く、指の熱でわずかに波打つ。
「……ねえ」
蒼衣が黒板の隅を指さした。消し残しの言葉の下に、さらに薄い文字が見える。何度も消され、また誰かに書かれたのだろう。粉の層の下から出てきた文字は、こうだった。
——授業を受ける者は、授業を作る者の心拍に接続される。
「心拍」
早智が低く反芻した。「評価表にない尺度」
「ないから、いちばん効く」
蒼衣は笑わないで言った。
「上階へ」
不意に、スピーカーが四文字を落とした。まるでチャイムの代わりの短い合図。鐘は鳴らない。鳴らす代わりに、空気が押し込まれる。
教室の後ろの壁が、ゆっくりと左右に割れた。そこに、新しい階段の口。コンクリートの縁。段差の縁にだけ黄色のテープ。安全の黄色は、いつも警告の黄色に近い。
出ていく前、レンは黒板の前にもう一度立った。チョークの欠片が、トレイの隅に転がっている。白、黄、ピンク。子どもの頃、黒板の前でこれを手に取ることに、すこしだけ憧れがあった。今は、触りたくなかった。触れれば、言葉がこちらのものになり、こちらの言葉があちらのものになる。
教卓の資料を半分閉じ、見開きで残した。統計の棒グラフの横に、薄い鉛筆のメモがあった。手書き。字は角ばり、不器用で、でも急いで書いた熱が残っている。
——二十五に達した者は、その後どこへ。合格ラインは、誰のための合格か。合格とは、上書きに耐えた紙の厚みのことか。
レンはその上から何も書かなかった。書かないで、ページを閉じた。閉じる音は軽い。軽い音の裏に、粉が静かに舞い上がる。粉は肺に届く。届いた粉は、咳になり、咳は授業の一部になる。
列が動く。剛は前へ、甲斐斗も前へ。早智は資料を一枚折ってポケットに入れ、蒼衣は黒板に背を向けるとき、一度だけ消し残しの言葉を振り返った。千景は端末ラックの方を見て、目を伏せる。
レンは最後尾で教室を見渡した。十五脚の机。空の二席。黒板の白。教卓の朱。ブラウン管の黒。端末ラックの埃の灰。色は少ない。少ないのに、目が疲れる。疲れは、正しい判断を鈍らせる。鈍った判断は、平均に吸い寄せられる。
階段の手前、レンはノートを開き、もう一行だけ書いた。
——顔を見せない設計者の代わりに、顔を見せる社会が拍手する。その拍手が、一段上の段差の高さになる。
階段の口から、冷たい風が上がってくる。風は外からではない。上から。上は外ではない。上は上だ。上へ行くことは、正解に近い罰だ。罰の形をした正解を、今日はまだ踏む。踏みながら、刃の丸さに気をつける。丸い刃は、深く刺さる。
背後で教室の扉が閉まり、カチ、と軽い音がした。軽いのに、骨に響く。空席が二つ、粉が一面。黒板の言葉は、粉の下でまだ咳をしている。咳は、次の階でもきっと続く。続いて、どこかで止まる。止めるのは、誰かの手か、設計された合図か。どちらでもない音が、時々、救いに似て鳴る。
レンは息を吸い、足を一段目に置いた。靴底の溝に、七階の粉が入る。粉は落ちない。落ちないものを連れて、上へ。蒼衣が振り向かないまま、指先を一瞬だけ後ろに伸ばした。触れるか触れないかの距離。触れずに、確かめた。その距離の中で、レンは「はい」とだけ小さく応えた。声は粉の中で薄くなり、それでも、耳の一番奥でまだ濃かった。
上階へ。
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