第6話 理性の崩壊
六階の階段は、金属の段差の一枚ごとに薄い油膜の匂いがした。足を載せるたび、靴底のゴムが少しだけ滑る。五階の白い粉は、まだ靴の溝に残っている。踏みしめると、粉がわずかに鳴った。鳴らないはずの粉の音が、耳の奥でだけ確かに鳴る。
扉が開く。六階は、これまでのどの階よりも生活の匂いがした。正面に共同キッチン。古い流し台が二つ、ぐらつくガスコンロが二口、年季の入ったステンレスの台。台の角は丸く磨り減り、誰かの手が何度もそこを掴んだことが指先の記憶として伝わってくる。奥は粗末な食糧庫。金属製のラックに、均一に並ばない缶詰、破れかけの紙袋に入った乾麺、粉末スープの箱、半透明の袋の米。冷蔵庫はひとつ。ドアのパッキンが割れていて、閉めるたびにしみる音がする。
「六階の課題です」
天井のスピーカーが、いつもの無表情を装った声で告げる。
「選択は二つ。本日の配給を、平等に分ける。あるいは、役立つ者に多く配る。多数決で決定してください。なお、在庫は有限です」
有限、という言葉はここでは皮肉に聞こえない。むしろ正直だ。レンは観察ノートの角を軽く撫で、蒼衣と視線を交わした。蒼衣は頷かない。ただ、長いまつ毛の影を少し深くした。
議論は、あっけなく偏った。甲斐斗が棚卸しのように在庫を数え、剛と早智が「動ける者が動くべきだ」と声を揃えた。動くためには栄養が必要。栄養は限られている。ならば、役立つ側に集中させ、上階を目指す。理屈は乾いていて、よく燃えた。
「最年少を外に出した直後だ」
蒼衣が低く言った。「せめて今日は平等に」
「感情の振り子で決めれば、判断はぶれる」
甲斐斗はすぐ返す。「ここで必要なのは効率だ。僕と剛、早智は、配管の確認、設備の点検、次の階段の位置の推定ができる。動けなくなると全体が落ちる。それは避けたい」
「役立つって誰が決めるの?」
結が小さく尋ねた。甲斐斗は肩をすくめる。
「今この場で自薦し、次に結果で示すしかない。透明だろう」
透明、という言葉が、レンの喉に引っかかった。透明は、見えるものだけを正しいとする言葉だ。見えない働きや、見えない疲労に、透明は冷たい。けれど、多数は後者を選んだ。手が上がる。スピーカーは「決定」とだけ言った。
初日は、まだ余裕があった。役立つ側と自認した三人には、米の比率が多く回り、粉末スープに乾麺が加わる。残りには薄い粥と薄いスープ。蒼衣は自分の椀から人知れず一口分を減らし、結の器に、その減らした分を目立たないように移した。千景は黙っていた。彼女は最初から声が小さい。声が小さい人間の空腹は、たいてい見落とされる。
二日目、余裕は融け始めた。缶詰の蓋を開ける音が、感情の蓋まで開ける。ツナの油はスプーンの裏で光り、誰かの視線がそこに吸い寄せられる。剛は作業台の末端で腕を回し、肩の可動を確かめながら「明日には二回り分配の見直し」と言った。早智は帳面を作り、「役立ち度」を短い言葉で書き留める。配管の詰まりを剛が見つけて直した、とか、甲斐斗が消耗品の位置を整理した、とか、そういう事実の列。事実は列に並ぶと権威をまとい、列外を見えなくする。
三日目、空腹は顔つきを変えた。朝、粉末スープの袋を切る音が薄い怒りを呼び、火の上の湯が小さく踊るたび、誰かの眉間に皺が寄った。配給の列は自然にできる。甲斐斗、剛、早智が前に立つ。蒼衣は少し引いて並ぶ。結は眠りが浅いのか、いつも列の最後に回る。千景は列の端で、誰にも触れない距離を保つ。
その朝、剛の足取りはいつもより速かった。レンは視界の端でそれを捉えて、胸の奥が細く固くなるのを感じた。
「遅い」
剛の声が、金属の器の縁で跳ねた音みたいに硬かった。結の前に置かれた皿は、まだ半分も満たされていない。蒼衣がスープ鍋を傾け、結の器に薄い琥珀色を落としていく。結が「ありがとう」と言いかけたその手前で、剛の手が器の縁を払った。
皿が床に滑って、ひっくり返った。薄いスープが白い床に広がり、琥珀色が広がる先端にぎざぎざの線ができる。乾いた床の上を、熱が走る。結は声を上げなかった。ただ、小さく口を開け、そのまま閉じた。手の甲にスープの熱が少し触れ、肌が赤くなった。
「列に遅れるな」
剛は言った。「遅れは全体の損失だ」
レンの体は、頭より先に動いた。剛の腕を掴む。太い筋肉の下で、硬い骨が動く。剛の視線がレンに移り、瞬間、空気が重くなる。甲斐斗が一歩踏み出し、早智が「やめて」と短く言う。
「やめて!」
蒼衣の叫びが、鍋の縁で跳ねた熱を冷ました。叫びは尖っていないのに、鋭かった。レンの掌から剛の体温が抜ける。剛は一歩退き、鼻から長い息を出した。
床にスープの跡が残った。布で拭き取っても、色は薄く残る。白い床は染みを嫌う。嫌うものほど、よく覚える。レンは膝をつき、布巾で床を押さえた。押さえる手に力が入るほど、染みは周りに薄く広がる。取りきれないものの手触りを、指は忘れない。
食後、甲斐斗は落ち着いた声で「行動指針」を口にした。効率、迅速、規律。言葉はどれも正しい顔をしている。正しさの顔は、空腹と組み合わさると牙を持つ。牙はすぐには見えない。見えないから、油断する。
夜。個室のドアに、紙が貼られていた。白い紙。角が均等に切られ、中央に細いフォントで項目が印字されている。上部に小さく「評価更新」とあり、その下に丸と三角と×の欄。丸の横には「役立つ→信頼+1」、三角の横には「無益→保留」、×の横には「妨害→信頼−1」。数学の授業で見たような、加減の記号。名前はない。誰が誰に付けた丸か三角かは、分からない。貼られた紙だけが、結果としてそこにある。数式めいた仕組みは、罪悪感を軽くする。軽くした罪悪感は、翌日もっと強気になる。強気は、いつも誰かに乗る。
レンのドアには「観察ノート管理→保留」とだけあった。蒼衣のドアには「キッチン補助→+1」。結のドアには、消えかけた鉛筆で「遅延→−1」。千景のドアには何も貼られていなかった。何も、もまた評価だ。
「これ、剥がしていい?」
蒼衣が紙の端に指をかけた。指先が白くなった。剥がれない。紙は強い接着で留められている。力で剥がせば、ドアの塗装が一緒に剥がれる。傷が残る。残った傷が、また評価になる。どこにも逃げ場がないように設計されている。
夜の廊下は冷たく、個室の壁は薄い。同じような呼吸が、同じ間隔で並ぶ。眠れない人間の息は音を持たないが、眠れない者同士の静けさは重なる。レンはノートを開き、書いた。
——「正しい分配」を掲げる者ほど、他人の空腹に鈍感になる。正しさが飢えの匂いを上塗りする。匂いは消えず、鼻が慣れる。
ペン先が紙を軽く裂き、筋ができた。紙は薄い。薄い紙に、重い言葉を載せるのは難しい。難しくても、載せる。
翌日、七階へ続く階段前に、新たな掲示が現れた。白い板に黒い文字。落ち着いた学校の掲示物のような体裁。
——選択。規範を破った者を一名申告→即座に一階進む。破りを見逃す→停滞。
停滞、という言葉はここでは脅しに近い。ここで止まることが、時に落ちるより怖い。落ちる時は叫べる。止まる時は、声が出ない。
「申告制か」
甲斐斗が掲示を読み、顎に手を当てる。「規範とは、配給の順守、衛生の保持、指示への従属……この階で示されたルール全般だろう」
剛は迷いなく紙とペンを取り、名前を書いた。結。理由の欄には短く「配給の列に遅れがち」とある。線は強く、迷いがない。
「待て」
レンは一歩出た。「それは破りじゃない。事情がある。眠れない夜が続いて、起き上がるのに時間がかかることだって——」
「事情まで評価には含められない」
甲斐斗が遮った。「ここで求められているのは、規範と停滞のトレードオフに対する選択だ。僕たちは停滞を選べない。選べば、それ自体が集団に対する裏切りになり得る」
「裏切り、ね」
蒼衣が噛んだ言葉を吐く。千景は端で小さく肩をすくめた。彼女の目は、誰にも焦点を合わせない。焦点のない目は、痛みを避ける術だ。
「結は」
レンは振り向いた。結は列の後ろで立っていた。両手を上げる。降参というより、観念のジェスチャーに近い。唇の端が震え、笑おうとするが、頬の筋肉が言うことを聞かない。
「大丈夫。こういうの、得意だから」
得意、という言葉は、彼女の声の中ではうつくしく割れた。得意、と言える場数を踏んできた人の声だった。場数が、彼女を守らなかったことが、声に埋まっていた。
投票は速かった。剛、甲斐斗、早智、何人か。反対は蒼衣とレン。千景は手を上げなかった。手を上げない手は、ここでは反対にも賛成にも数えられない。賛成が多数になった瞬間、掲示板の白がわずかに濃くなった気がした。
「決定」
スピーカーの声は変わらない。階段の扉がざらりと音を立て、上へ続く口が開いた。金属の段差が、静脈のように灰色に連なっている。進め、という命令の形をした静けさが、口の奥で待っていた。
「結——」
蒼衣が近づこうとすると、結は一歩、さがった。笑みは作れないまま、彼女は両手を胸の前で組み、指を絡め直した。
「行って。早く。停滞は、つらいから」
つらい、という言葉が薄く、軽く発音された。軽くしないと、喉を通らない言葉。レンは胃のあたりに、小さな剣山を押し当てられたような痛みを感じた。
一行は、階段へ。剛が先頭。甲斐斗、早智、蒼衣、千景。レンは最後尾を取った。振り返れば、結がいた。彼女は壁に背中をつけ、踵で床を一度軽く叩いて、音を確かめた。確かめた音は、誰にも届かない。届かない音ほど、自分に強く返ってくる。
足を一段、また一段。六階の空気が薄くなり、七階の見えない気配が鼻にかかる。金属の匂い、古い紙、乾いた布。階段の中ほどで、音がした。低い、重い、押し殺したような音。レンだけの耳に届く距離。最後尾の特権のような、罰のような距離。
錠が落ちる音だった。
五階で聞いた、外側からの錠の音に似ている。だが、今回はもっと近い。階段の下、六階のどこかで、結の背後のドアか何かに、太い金属が落ちて掛かった。じゃらり、と短く、続けて、ずしん、と。
レンは反射的に振り返りかけ、やめた。振り返ることは、ここでは上を遅らせる。遅れは、また誰かの紙に「遅延→−1」と印字される。印字は刃になり、刃はまた、誰かの器を払う。すべてが円環になって、狭い階段の空気をぐるぐる回る。
「レン」
蒼衣が小さく呼んだ。先を行きながらも、声の位置は近かった。レンは頷いた。頷いた動きで、喉の奥の音を呑み込んだ。観察ノートを胸に当てる。紙の角が胸骨に触れ、現実の形を作る。紙は薄い。薄い紙に、重いものを閉じ込める。閉じ込めたものは、たまに紙の繊維を通って息をする。紙が、微かに温かい。
階段の上から、七階の空気が流れてくる。冷たいのに、乾いていない。誰かが見た夢の中の温度のような、あいまいな温度。足音が一つ減っている現実を、誰も言葉にしない。言葉にしないと、現実はしばらく薄くなる。薄くなった間に、上へ行ける。上へ行くことが、ここでは正解だ。正解は、飢えと組むと残酷になる。
レンは、最後の一段に足を置く直前に、胸の前のノートを開いた。書けるだけ書く。書いても、何も変わらないかもしれない。何も変わらなくても、これは刃じゃなくて、紙だ。刃の形にならないままで、紙でいさせたい。
——欠乏は人を小さくする。小さくなった人は、正しさの鎧を重ねる。鎧は重い。他人の空腹に鈍くなるほど、鎧は厚くなる。厚い鎧は、叩けば立派な音がする。その音が、今は一番危ない。
ペン先が一瞬、紙を破りそうになり、止まる。止まった先で、七階の扉が、開いた。冷たい空気が顔に触れ、背中に残った六階の匂いが、階段の下へ押し出される。押し出された匂いは、錠の音と混ざり、記憶の底に沈む。
振り返らない。振り返りたい。その二つの気持ちが、胸の中で折り紙みたいに折り重なる。折り畳まれた紙の角が鋭く、内側を傷つける。傷の形は小さいが、夜、そこから何かが滲む。
七階に足を入れる。金属の床の冷たさが、靴底を通して足の指に伝わる。前を行く剛の背中は大きい。甲斐斗の肩は相変わらず落ち着いている。早智は首筋に手を当て、小さく呼吸を整えた。蒼衣は一度だけ目を閉じ、開いた。千景は、まだ一言も発していない。
レンは最後にノートを閉じ、薄い音を立てた。薄い音は、狭い空間でよく響く。響きが、刃の音に聞こえないように。紙の音のままで聞こえるように。祈りに似た、願いに似た、現実に似た。
下では、もう何の音もしない。錠の音は一度きりだ。だからこそ、忘れない。忘れるわけにはいかない。忘れたがる自分を、紙に留めておく。紙は覚えてくれる。覚えてくれるものがある間は、まだ人間でいられる。
七階の空気が、喉に入り、肺の奥で冷たく広がった。怖さは消えない。消えないまま、前へ。前へ行くことが、ここでは罰に近い。罰の形をした正解の上を、今は歩くしかない。足音がひとつ減った分だけ、残った足音は強く響く。響きが、誰かの器を払い落とす音に似ていないように、と願いながら。
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