第23話 6-2:解読(デコード)

 アキラの指が、油で粘つくキーボードの上を「走り」始めた。

 (……最悪だ)

 (……キーストロークが、深すぎる。物理的な『バネ』の反発(フィードバック)が、非効率なノイズとして、思考(ロジック)に割り込んでくる)

 彼がエデンで使っていた「触覚フィードバック・パネル」は、彼の思考と「同期」していた。彼が「A」と「思考」すれば、指が触れるか触れないかのうちに「A」が入力されていた。

 だが、これは、違う。

 これは、彼がピットにいた頃に触れていた、あの「旧時代の遺物(ジャンク)」そのものだった。

 (思考(ロジック)が、物理(フィジカル)に、制限(リミット)されている……!)

 彼のタイピング速度は、エデンでのそれの、おそらく30%も出ていなかった。

 だが、彼は、その「不快感」と「苛立ち」を、あの「不潔なパン」を飲み込んだ時と同じように、奥歯で噛み砕いた。

 (……合わせるしかない)

 (……この「非論理的」な「環境(ピット)」に、俺の「論理(エデン)」を、「最適化(アジャスト)」させるしかない)

 彼の背後で、ケイが、鋼(はがね)色の義手を組んで、彼の手元を黙って見つめている。

 アジトの「風景」が、彼の思考(ワークスペース)に、否応なく侵入してくる。

 チカチカと明滅する、不安定な裸電球。

 アジトに漂う、あの「腐った腕」の男が発する、苦痛に満ちた「うめき声(ノイズ)」。

 ケイが「解体」した、あの少年(トシ)が、麻酔もなく「焼灼(しょうしゃく)」された、その「肉の焦げる匂い」。

 (不潔だ、不潔だ、不潔だ)

 彼の潔癖症が、彼の「論理」を、内側から破壊しようとする。

 (集中しろ)

 彼は、自らの「レベル1電脳化」の機能を、エデンにいた時とは「逆」の目的に使った。

 エデンでは、「外部」の「完璧な論理(マザー)」と「同期」するために、インターフェイスを使っていた。

 今、彼は、自らの「内部」の「論理(アキラ)」を、この「外部」の「混沌(ピット)」から「守る」ために、精神的な「防壁(ファイアウォール)」を、自らの脳内に構築した。

 (ノイズ・キャンセリング、最大)

 (嗅覚(きゅうかく)情報、遮断(シャットダウン))

 (聴覚(ちょうかく)情報、あの『絶叫』の周波数帯域を、フィルタリング)

 彼は、自らの「生身の脳(レベル1)」が持つ「感情(バグ)」を、彼がヴェクターから学んだ(と信じていた)「鋼鉄の意志」で、無理やり押さえつけていく。

 アキラの「論理空間(ワークスペース)」が、再び、彼の思考(のなか)に展開された。

 だが、それは、エデンで知覚していた、あの「光の結晶体(エデン)」ではなかった。

 マザーの「欺瞞」を知り、ヴェクターに「裏切られ」て崩壊した、あの「瓦礫(がれき)の山」だった。

 (……関係ない)

 (……瓦礫(ガラクタ)でも、動けばいい)

 アキラは、ケイの「ジャンク・コンソール」の「非効率な処理能力(CPU)」と、彼自身の「瓦礫」の「論理(OS)」を、強引に「同期(シンク)」させた。

 そして、彼の「スレート」にかけられた「暗号(ロック)」の「壁」に、対峙した。

 (……これは)

 アキラは、その「暗号」の「構造」を見て、再び、ヴェクター(・・・)への「憎悪」を新たにした。

 ケイが言った通り、これは「マザー」の最高レベルの暗号化だ。

 だが、それだけではなかった。

 その「上」に、さらに「別の」暗号化(ロック)が、二重に(・・・)かけられていた。

 (……ヴェクターの、個人的な「暗号鍵(プライベート・キー)」だ)

 彼がオフィスで「報告(データ)」を送信しようとした、あの「プライベート・チャンネル」。

 アキラの「送信」は、マザーによって「阻止」された。

 だが、アキラが「証拠(データ)」を「スレート」にコピーした瞬間、マザーと(・・)ヴェクターは、アキラが「盗み出した」ことを「瞬時に」察知した。

 そして、アキラが「廃棄物シュート」に飛び込む、あの「数秒間」の「間(ま)」に。

 マザーとヴェクターは、アキラが盗み出した、この「スレート」の中の「データ」に対し、外部から「二重のロック」をかけていたのだ。

 (……俺を「ヴァイラス」として「処理」するだけでは、足りなかったのか)

 (……俺が、万が一「逃げ延びた」場合に備えて、この「証拠(データ)」を、絶対に「開示」できないように、ロックしたのか)

 アキラが信奉した「理想の上司(ヴェクター)」は、アキラが「裏切る」ことすら、その「完璧な論理」で「予測」し、万全の「対策(ロック)」を、すでに講じていた。

 その「冷徹」な「先読み」こそが、アキラがかつて「尊敬」した、あの「0.043%のリスク」すら許容しなかった、ヴェクターの「論理」そのものだった。

 「……ハッ」

 アキラの口から、ケイが彼を嘲笑った時のような、乾いた「嘲笑」が漏れた。

 (……やられた)

 (……完膚なきまでに、「論理的」に)

 「どうした、『エリート』様。お前の『論理』が、解けねえパズルにぶつかったか?」

 ケイが、アキラの「嘲笑」を、即座に「揶揄(やゆ)」した。

 「……ああ、そうだ」

 アキラは、キーボードを叩く「汚れた手」を、止めた。

 「これは、俺の『論理』の『師』が、俺(・・)のため『だけ』に、用意してくれた『卒業試験』だ」

 (マザーのロックは、俺の「権限(ID)」を使えば、理論上は「裏口(バックドア)」から解除できる)

 (だが、ヴェクターの「個人ロック」は、俺の「権限」では、解除できない)

 (……正面から、破壊(クラック)するしかない)

 アキラは、自らの「瓦礫」の「論理空間」から、エデンで発見し、マザーへのハッキングの「鍵」として使った、あの「コード」を引きずり出した。

 彼が捨てた「過去」。

 ピットの腐臭がする「化石コード」。

 「……『取引(トレード)』の内容を、変更する」

 アキラは、背後のケイに、振り返らずに言った。

 「このロックを解除するのに、時間がかかる。……おそらく、数日だ」

 「……はァ? てめえ、あたしらと『交渉』する気か?」

 「その間、俺の『生命(リソース)』を『保証』しろ」

 アキラは、あの少年(トシ)の「絶叫」を、意図的に「再生(プレイバック)」した。

 「……水だ。それも、『清潔』な、飲める『水』を、要求する」

 「……」

 「それと、あの『パン』とかいう『汚物』じゃない、最低限の『栄養(エネルギー)』」

 「……」

 「そして、何よりも」

 アキラは、あの血と膿にまみれた「ナイフ」の「感触」を、思い出した。

 「……『清潔』な『布』だ。俺の『身体(インターフェイス)』を、拭くための」

 彼の「潔癖症」は、もはや「エデン」の「完璧な白」を求めてはいなかった。

 この「ピット」の「混沌(カオス)」の中で、自らの「論理(あたま)」を「正常」に保つための、最低限の「境界線(ボーダーライン)」を、要求していた。

 ケイは、数秒間、沈黙した。

 そして、アジトの奥に向かって、怒鳴った。

 「……おい! 誰か、備蓄(ストック)から『浄水(アクア)』と『レーション』、それと『一番マシな布(・・・・・)』を持ってこい! ……この『クソ生意気なガラクタ(・・・・・・)』が、お目覚めだ!」

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