第22話 第6章:共振(プラン) 6-1:手(ハンズ)

 (……この『クソみてえな暗号(ロック)』を、解除(ハック)しろ)

 ケイの言葉が、アキラの思考に突き刺さったまま、数秒が経過した。

 彼の口内には、先ほど無理やりねじ込まれた、あの「不潔なパン」の酸味と、汚染された穀物のザラついた「感触」が、まだ生々しく残っている。

 彼の潔癖症が、その「異物」を吐き出せと、絶え間なく警報を鳴らし続けていた。

 だが、アキラは、吐き出すことすら忘れて、目の前の「女」と、彼女が突きつけた「スレート」——彼が命がけで持ち出した、唯一の「論理(あかし)」——を凝視していた。

 (……解除しろ、だと?)

 (……この、俺に?)

 アキラの思考が、ケイの「非論理的」な要求を理解しようと、必死に回転した。

 この女は、アジトに運ばれた彼(アキラ)をスキャンした際、このスレートにかけられた「最高レベルの暗号化(マザーのロック)」を認識していたはずだ。

 そして今、目の前で「原初の医療」という「非論理的な暴力」を、平然とやってのけた。

 そんな「野蛮」な女が、エデンの「論理」の結晶であるこの暗号を、なぜ解読する必要がある?

 いや、それ以上に。

 (……なぜ、俺に「できる」と判断した?)

 「聞こえなかったのか、『エリート』様」

 ケイは、アキラの胸倉を掴んだまま、その鋼(はがね)色の義手を、アキラの顔のすぐそばにあるコンテナの「壁」に叩きつけた。ガアン、と耳をつんざく金属音。

 「お前のその『ガラクタ』になった『頭』が、あたしたち『ピット・ラッツ』にとって、その『汚れたパン』以下の『価値』しかないなら」

 彼女の生身の目が、ヴェクターのサイバネティック・アイ以上に、冷たくアキラの「存在価値」を「値踏み」していた。

 「……今すぐ、さっき切り落とした、あの『壊死した脚(ジャンク)』と一緒に、汚泥(スライム)の海に放り出してやる」

 「……」

 アキラは、言葉を失った。

 「論理的」だ。

 皮肉なことに、彼女の「脅迫」は、アキラが理解する「エデン」の論理とは異なる、ピットの「生存」の論理に貫かれていた。

 「価値(リソース)」を示せなければ、「廃棄(パージ)」される。

 それは、アキラがエデンで信奉していた「効率」の、最も「暴力的」な「現実」だった。

 (……俺の「論理」は、ここでは「生きるための武器」でしかない)

 アキラは、口内に残っていた「不潔なパン」を、エデンから堕ちて汚泥(スライム)を吐き出した時以上の「屈辱」と「自己嫌悪」と共に、飲み込んだ。

 (……不味い)

 それは、彼の「潔癖症」が、ピットの「現実」に、初めて「屈服」した瞬間だった。

 「……いいだろう」

 アキラは、かすれた声で答えた。

 「だが、その『ジャンク・コンソール』では、インターフェイスのプロトコルが違いすぎる。物理的に、不可能だ」

 アキラは、ケイがスレートに接続している、錆びついた「ケーブル群」を、軽蔑の目で見つめた。

 「エデンのスレートは、量子ビット・プロトコルで通信している。お前たちが使っている、その『化石』のようなシリアル通信(・・・・・)では、接続(コネクト)すらできない」

 それは、エデンのエリートプログラマーとしての、最後の「プライド」だった。

 (お前たちの「非論理的」な「ガラクタ」では、俺の「論理」には触れさせない)

 だが、ケイは、アキラのその「プライド」を、一瞬で踏みにじった。

 「『量子ビット』? ああ、『エデン』の連中が使ってる、あの『不安定』で『非効率』なオモチャのことか?」

 (……非効率?)

 アキラの「論理」が、その「単語」に反応した。量子通信が、非効率? 馬鹿な。

 ケイは、アキラを壁に押し付けたまま、もう片方の手(生身の手だ)で、コンソールのキーを、アキラがエデンで見たこともないような、暴力的だが、しかし「最適化された」速度で叩いた。

 「ピットの『電磁嵐(ノイズ・ストーム)』の中じゃ、お前らの『量子ビット』なんて、ガキの『シャボン玉』みてえに、一瞬で弾け飛ぶんだよ」

 彼女は、コンソールの「物理スイッチ」を、乱暴に切り替えた。

 旧式のブラウン管モニターが、一度ブラックアウトし、次の瞬間、アキラが「あり得ない」と絶叫しそうになる「画面」を表示した。

 「あたしたちは、お前らが『ゴミ』として捨てた、旧式の『光ファイバー・プロトコル』を、独自に『魔改造(チューン)』して使ってる」

 モニターに映し出されていたのは、アキラがエデンで使っていたものと「同規格」の、だが、明らかに「ピット」のジャンクパーツで「再構築」された、デバッグ用の「コンソール画面」だった。

 「このスレートが、お前らの『量子ビット』と、あたしたちの『光(ライト)』の両方に対応してる『軍事用(ミリタリー・スペック)』の『ハイブリッド型』だってことくらい、お前をスキャンした時(・・・・・)とっくに解析(・・)済みだ」

 アキラは、戦慄した。

 この女は、ただの「ジャンク漁り」ではない。

 彼女は、アキラがエデンで「美しい」と信じていた「論理」とは「別系統」の、ピットの「汚泥」の中で進化した、「生存」のための「技術(テクノロジー)」を、その「汚れた手」で組み上げていたのだ。

 「……立て」

 ケイは、アキラの胸倉から手を放し、彼を「ジャンク・コンソール」の前へと突き飛ばした。

 アキラは、よろめきながら、その「コンソール」の前に立った。

 キーボード。それは、エデンの「触覚フィードバック・パネル」ではない。

 キーが、一つ一つ物理的に「存在」し、その表面は、長年の使用によって、油と汗と「何か」で、不潔に「テカって」いた。

 彼の潔癖症が、彼に「触れるな」と、最後の「警告」を発した。

 (……不潔だ)

 (……この「汚物」に、俺の「手」で、触れろと?)

 「どうした、『エリート』様。お前の『完璧な論理』は、その『汚れたキー』を、怖がってるのか?」

 ケイが、背後で、彼女の義体が発する、冷たい「金属音」を鳴らした。

 アキラは、震える「手」を、ゆっくりと持ち上げた。

 彼がエデンで、純白のコンソールを操作していた、その「清潔」な指。

 その指先が、ピットの「現実」——油と汗と埃(ほこり)にまみれた、物理的な「キー」——に、触れた。

 (……冷たい)

 (……そして、粘つく)

 アキラは、目を閉じ、汚泥(スライム)に堕ちた瞬間の、あの「絶望」を、再び味わっていた。

 彼の「手」が、彼の「論理」が、ピットの「汚泥」に、物理的に「汚染」された。

 彼は、その「屈辱」を、奥歯で噛みしめた。

 「……暗号(ロック)を、解除(ハック)する」

 アキラは、エデンでハルを論破した時とも、ヴェクターに高揚した時とも、裏切りに絶叫した時とも違う、冷たく、そして「汚れた」声で、そう呟いた。

 「……だが、条件がある」

 「……あァ?」

 「このデータは、俺の『論理』だ。お前たち『ジャンク』に、ただでくれてやる『ガラクタ』じゃない」

 アキラは、キーボードの「感触」に吐き気をこらえながら、振り返った。

 「俺は、この『アジト』の『風景』に反吐(へど)が出そうだ。あの『腐った腕』も、さっきの『絶叫』も、すべてが『非論理的』で『不潔』だ」

 「……てめえ……」

 「だが」

 アキラは、ケイの殺意を、正面から受け止めた。

 「『非論理的』なのは、お前たちだけじゃない。俺がいた『エデン』も、同じだ。……いや、それ以上に『狂って』いた」

 アキラは、自らが「堕ちた」理由を、初めて、他者(ピット)に告げようとしていた。

 「俺は、この『スレート』の中身を、お前たちに『開示』する。その代わり、お前たちは、俺を『客』として扱え。俺は『ジャンク』じゃない。……『取引相手(トレーダー)』だ」

 ケイは、アキラの「非論理的」な「提案」に、一瞬、虚を突かれた。

 そして、彼女の口元に、彼を嘲笑(あざわら)った時とは違う、獰猛(どうもう)な「笑み」が浮かんだ。

 「……ハッ。面白い」

 「『取引』ね。いいだろう、『エリート』様。お前の『論理(あかし)』が、あたしたちにとって『取引』する『価値』があるものかどうか、その『汚れた手』で、証明してみせな」

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