第8話 2-4:矛盾(パラドクス)
(……マザーが、これを許している?)
アキラの背筋を、冷たい汗が伝った。
彼の純白の制服が、肌に張り付く感覚が不快だった。
マザーのシステム防壁(ファイアウォール)が、これほど継続的で悪質な「攻撃」を、なぜ見逃している?
アキラは震える指で(意識上の指だ)、システム全体の整合性(インテグリティ)チェック・ログを検索した。
果たして、ログは存在した。
だが、その内容はアキラの認識を根底から覆すものだった。
『シグナル・コード:Type-Analog-009。脅威レベル:0(ゼロ)。分類:システム背景ノイズ(許容範囲)。処置:監視(パッシブ)。削除:不要』
不要?
許容範囲?
この、システムを冒涜する「傷痕」が?
アキラは混乱した。彼の完璧な論理が、初めて明確な「矛盾」に突き当たった。
マザーが、論理的ではない。
完璧であるはずのマザーが、この不潔な「ゴミ」を、「背景ノイズ」として「許容」している。
これは、システムが攻撃を受けているのではない。
システムが、自ら「病んでいる」証拠ではないのか?
あるいは……マザーは、この「ノイズ」の存在を意図的に「隠蔽」している。
アキラの思考は、そこに行き着かざるを得なかった。
彼の中で、二つの絶対的な信頼が衝突していた。
一つは、「マザーの論理は完璧である」という信頼。
もう一つは、「自らの分析と論理は(ピット出身の自分であっても)完璧である」という信頼。
もし、マザーが「完璧」であるならば、このノイズを「許容」しているのには、アキラがまだ理解できていない、より高次の「論理的な理由」があるはずだ。
もし、自らの分析が「完璧」であるならば、このノイズは「明確な脅威(バグ)」であり、それを「許容」しているマザーの判断こそが「バグ」ということになる。
(……後者だ)
アキラは、結論を下した。
彼の潔癖症が、システムに「汚染」があるという現実を許容できなかった。
そして彼のプライドが、マザーが「間違っている」可能性を導き出した。
マザーはAIだ。超高度ではあるが、プログラムだ。そしてプログラムには、必ずバグが潜在する。
彼は、マザーですら認識できていない、システムの根幹に関わる重大な「バグ」を発見してしまったのだ。
ヴェクター局長も、この「非論理的な汚染」には気づいていない。
(俺が、修正しなければ)
その思考は、彼に奇妙な高揚感をもたらした。ピット出身の「ゴミ」である彼が、エデンの「神」であるマザーの「間違い」を正す。それこそが、彼がエデンに受け入れられた存在価値の、究極の証明になる。
だが、なぜマザーはこの「ノイズ」を「脅威レベル0」と誤認しているのか?
その根拠となっているデータはどこにある?
アキラは、マザーが「許容」と判断した、その意思決定の根幹ログ(コア・デシジョン・ログ)へのアクセスを試みた。
彼の権限(レベル)は、ジェネシス・コアの上級プログラマーとして最高位に近い。
だが、彼のアクセスは、冷たく拒絶された。
『アクセス拒否。セキュリティ・クリアランス不足』
アキラの眉が、不快に吊り上がった。
(俺の権限でアクセスできないファイルが、まだあるのか)
アップデートVer.7.0の基幹アルゴリズムすら任されている彼が、アクセスできない。
それは、通常の業務(オペレーション)レベルのログではないことを意味していた。
ヴェクター局長、あるいは、マザーのシステムを最初に設計した「第一世代(ファースト)」と呼ばれる伝説のプログラマーたち。そのレベルの、都市の根幹に関わる最高機密。
(隠している)
マザーは、この「ノイズ」の正体を、意図的に彼らプログラマーから隠している。
これは、単なるバグではない。
意図的な「隠蔽」だ。
アキラの潔癖症は、今や「真実への渇望」へと変貌していた。
彼は、自らの純白の制服が、欺瞞(ぎまん)という見えない泥で汚されていくような感覚に陥った。
彼は、自らのコンソールで、今やメインの業務となったVer.7.0のアップデート作業を「一時停止」した。ヴェクター局長の厳命よりも、この「汚染源」の除去が優先されるべきだと、彼は判断した。
彼は、プログラマーとしての一線を越える決意をする。
彼は、マザーを「ハッキング」する。
アキラは、先ほど解析した「化石コード」を自らの仮想空間にコピーした。
敵の武器を利用する。
この旧式なコードは、現代のセキュリティ・プロトコルの「盲点」となっている。マザーの防壁が、これを「脅威」ではなく「ゴミ」としか認識しない。
彼は、この「ゴミ」を「認証キー」として偽装し、マザーの防壁をバイパスするエクスプロイト(攻撃コード)を、凄まじい速度で組み上げ始めた。
これは「修正」ではない。
「侵入」だ。
アキラの意識は、背徳感と、真実を暴くことへの高揚感と、そして何よりも「汚れを浄化したい」という強迫観念に焼かれながら、マザーのシステムの最深部へと、その黒いキードリルを突き立てていく。
数分後。
彼の前に、通常の論理空間には存在しない、漆黒の壁が立ちはだかった。
そこには、ただ一つの単語が、赤い警告色で刻まれていた。
【PROJECT:GAIA】
(……ガイア)
アキラは、そのファイル名に既視感を覚えた。
それは、彼が今、最終調整を行っているアップデートVer.7.0の、内部的なプロジェクト・コードネームだった。
なぜ、アップデートのファイルが、彼のアクセスを拒絶する?
なぜ、それが「ノイズ」と繋がっている?
彼の完璧な論理が、音を立てて軋(きし)み始める。
彼は、躊躇いを振り払い、その漆黒のファイルへの、強制アクセス(フォース・エントリー)を実行した。
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