第三話「帝都への片道切符」
「……つがい……?」
俺は彼の言葉をうまく理解できなかった。目の前の現実が、まるで夢物語のように感じられる。
番(つがい)。
それはαとΩの間に結ばれる魂の絆。生涯でただ一人しかいない、運命の相手。本で読んだ知識としては知っていた。けれど、それは貴族たちの間で交わされるおとぎ話のようなもので、俺のような辺境の村の薬師にはまったく縁のない言葉だと思っていた。
「何を……言っているんですか」
震える声で、かろうじてそれだけを口にした。彼の熱い手のひらが頬に触れたままだ。そこから伝わる熱が、まるで全身に回っていくように錯覚する。
リアム総長――リアムさんは、俺の問いには答えずただじっと俺を見つめていた。その青い瞳に宿る熱は、先ほどよりもさらに濃くなっている。それは今まで俺が向けられたことのない種類の、強烈な光だった。
「総長! ご無事ですか!」
副長をはじめとした騎士たちが駆け寄ってくる。彼らは俺に触れているリアムさんの姿を見て、一瞬戸惑ったような表情を浮かべた。
リアムさんはゆっくりと立ち上がると、俺に向かって手を差し伸べた。
「立てるか」
俺はその手を借りず自力で立ち上がる。まだ足が少し震えていた。
彼と距離を取ろうと一歩後ずさると、その眉がわずかに顰められる。
「カイリ殿、大丈夫か! 君が総長を庇ってくれたおかげで、総長はご無事だった。本当にありがとう」
副長が心から感謝するように言った。その言葉に、他の騎士たちも次々に頷く。さっきまでのよそよそしい態度はどこにもない。
でも、俺は素直にその言葉を受け取れなかった。
それどころじゃない。俺の秘密が、Ωであることが、この人たちに、特に目の前のリアムさんに知られてしまった。これからどうなるんだろう。不安で胸が張り裂けそうだった。
リアムさんは部下たちに負傷者の手当と魔獣の処理を的確に指示すると、再び俺に向き直った。
「君には話がある。場所を移そう」
彼の有無を言わせぬ口調に、俺は反論できなかった。
村に戻り俺の家に案内すると、彼は他の騎士を下がらせて二人きりになった。小さな家の中に長身の彼がいると、やけに狭く感じる。
部屋には、乾燥させた薬草の匂いが満ちていた。リアムさんは物珍しそうに部屋の中を見渡している。
「……ここが、君の仕事場か」
「はい。薬師なので」
沈黙が重い。何を言われるのかと、俺は固唾を飲んで彼の次の言葉を待った。
「単刀直入に言う。君に、帝都へ来てもらいたい」
「……え?」
予想外の言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げた。帝都? どうして俺が。
「なぜ、俺が帝都に……?」
「君の力が必要だ。君が『白銀のΩ』であることは分かっている。その類稀なるフェロモンはαの能力を飛躍的に向上させる。それは先の戦いで証明された」
彼は淡々と、まるで仕事の話でもするように言った。
『白銀のΩ』。その言葉を他人の口から聞いたのは初めてだった。両親が、お前は特別な存在なのだと悲しそうに教えてくれた、俺の宿命。
「その力は帝国の守りとなる。俺の側近として帝国に仕える気はないか。もちろん、相応の地位と報酬は約束する」
地位。報酬。そんなもので、俺の心は動かない。
俺が欲しいのは、ここで穏やかに暮らすただそれだけだ。
「お断りします」
俺は、はっきりとそう告げた。
リアムさんの青い瞳がすっと細められる。部屋の温度がまた数度下がった気がした。
「理由を聞こうか」
「俺はここで薬師として生きていきたいんです。帝都へ行く気はありません。それに俺は自分の力を、誰かのために使うつもりもありません」
俺は自分の力がどんなものか、よく分かっている。それは人を強くするけれど、同時に人を狂わせる。その力を巡って争いが起きる。俺の両親も、そうした争いに巻き込まれて……。もう、あんな思いはたくさんだ。
「それは君一人の意思で決められることではない」
彼の声は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。
「『白銀のΩ』は帝国の至宝だ。法によれば発見され次第、皇族の管理下に置かれることになっている。君がそれを拒めば、どうなるか分かるな?」
脅しだ。冷たい、氷のような脅迫。
俺は唇を噛み締めた。この人は本気だ。俺が頷かなければ、力ずくでも連れて行く気だろう。
「……卑怯だ」
「何とでも言え。だがこれが現実だ。君には二つに一つの道しかない。俺と共に帝都へ行き俺の庇護の下で帝国に仕えるか。あるいは帝国法に基づき身柄を拘束され、自由のない生活を送るか」
どちらを選んでも待っているのは地獄だ。
でも、まだマシな方の地獄を選ぶしかない。
「……どうして、あなたなんです? あなたの側近になんて、なりたくない」
精一杯の抵抗だった。
すると彼はふっと息を吐き、俺との距離を詰めてきた。壁際に追い詰められ、逃げ場がなくなる。
「俺だからだ」
彼の大きな手が、俺の顎を掬い上げる。無理やり上を向かされ、凍てつくような青い瞳と視線が絡み合った。
「俺は、君が俺の番(つがい)だと確信している。他のαになど、渡すものか」
彼の瞳の奥で青い炎が揺らめいている。それは執着の色。独占欲の色。
この人は、俺の力を帝国のために利用しようとしているだけじゃない。俺自身を手に入れようとしているんだ。
「君は、今日から俺のものだ」
それはプロポーズでも、愛の告白でもない。
絶対的な支配者が下す、一方的な宣告だった。
俺の穏やかだった日々は、こうして終わりを告げた。
氷の騎士が差し出した手は救いの手なんかじゃない。俺を鳥籠へと誘う、冷たい片道切符だったのだ。
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