第二話「予期せぬ共鳴」

「……何者だと申されましても。俺はただの、この村の薬師ですが」


 心臓の音を悟られまいと、俺は努めて平静を装って答えた。背中を冷たい汗が伝う。リアム総長の青い瞳はまだ熱で潤んでいるものの、その奥には獲物を見据える獣のような光が宿っていた。


「……そうか」


 彼はそれだけを言うと、再び目を閉じた。荒かった呼吸は薬が効いてきたのか、少しずつ落ち着きを取り戻している。副長が俺に深々と頭を下げた。


「助かった、カイリ殿。感謝する。報酬は弾ませてもらう」


「いえ、薬師として当然のことをしたまでです。何かあればまた呼んでください」


 俺は足早に部屋を辞し、宿屋を後にした。夜風が火照った頬に心地いい。


『危なかった……』


 さっきの彼の目は、間違いなく何かを探るような色をしていた。俺がΩであることを見抜かれたわけではないだろう。抑制薬は完璧なはずだ。だけど、何かを感じ取られた。それは確かだった。


 これ以上彼らと関わるのは危険だ。早く魔獣を討伐して、帝都へ帰ってくれればいい。そう願いながら、俺は家路を急いだ。


 翌日、リアム総長の熱はすっかり下がり、体調も回復したようだった。騎士団は早速、魔獣討伐のために森へ入っていく。村にはいつも通りの静けさが戻り、俺は胸を撫で下ろした。


 しかし、その平穏は長くは続かなかった。


 昼過ぎのことだった。森の方角から、大地を揺るがすような咆哮が響き渡る。村人たちが不安げに空を見上げた。俺も薬草を干す手を止め、音のした方角を睨んだ。


 しばらくして、一人の騎士が血相を変えて村に駆け込んできた。


「治癒師はいるか! 負傷者が多数出ている! それと、カイリ殿はどこだ!」


 俺はすぐさま薬箱を掴み、騎士の後を追って森へと走った。


 現場は、想像を絶する光景だった。木々はなぎ倒され、地面は抉れている。銀色の鎧をまとった騎士たちが、巨大な獣――グリフォンによく似ているが、それよりも遥かに禍々しい姿をした魔獣――と死闘を繰り広げていた。


 あちこちで騎士たちが傷つき倒れている。俺はすぐさま彼らの元へ駆け寄り、応急手当を始めた。


「しっかりしろ! 今、止血する!」


 戦いの中心では、リアム総長が一人で魔獣と対峙していた。彼の振るう剣は白銀の軌跡を描き、魔獣の硬い皮膚を切り裂いていく。だが相手も手強い。鋭い爪が、鉤爪のようなくちばしが、休むことなく彼に襲いかかる。


 その時だった。魔獣が奇妙な鳴き声を上げたかと思うと、その口から黒い霧を吐き出した。


「総長、お下がりください! 瘴気です!」


 騎士の一人が叫ぶ。

 しかしリアム総長は部下をかばうように一歩も引かず、剣で瘴気を薙ぎ払った。だが全てを防ぎきることはできず、一部を吸い込んでしまったようだ。彼の動きが一瞬、鈍る。


 魔獣はその隙を見逃さなかった。巨大な前足が、薙ぎ払うようにリアム総長を襲う。


「危ない!」


 俺は、考えるより先に体が動いていた。

 駆け出し、リアム総長の体を突き飛ばす。俺たちのいた場所に、数瞬遅れて魔獣の爪が振り下ろされ地面を深く抉った。


「ぐっ……!」


 突き飛ばした勢いで、俺は地面に倒れ込む。その瞬間、抑制薬を入れていた胸ポケットの小瓶が、石に当たって砕け散る音がした。


『しまった……!』


 ガラスの破片と共に、薬草を調合した粉末が宙に舞う。そしてそれを押さえつけるものがなくなったことで、俺の体の中から何かが溢れ出す感覚があった。


 甘い、花の蜜のような香り。

 それは、俺がずっと隠し続けてきた、Ωのフェロモンだった。


 しかも、ただのΩではない。希少種である『白銀のΩ』が放つフェロモンは、αの闘争本能を極限まで高め、その能力を一時的に増幅させる効果があると言われている。古の文献でしか読んだことのない、伝説のような話だ。


 俺のフェロモンを浴びた瞬間、リアム総長の動きがぴたりと止まった。

 そして、ゆっくりと俺の方を振り返る。

 彼の青い瞳が、あり得ないほど大きく見開かれていた。驚愕と、困惑と、そして――今まで見たこともないほどの熱を帯びた強い光。


「……お前、だったのか」


 彼の呟きは戦場の喧騒の中、不思議と俺の耳にはっきりと届いた。


 俺のフェロモンに呼応するように、リアム総長のαとしてのオーラが爆発的に膨れ上がる。それはもはや冬の山の頂などという生易しいものではない。全てを飲み込み凍てつかせる、絶対零度の吹雪そのものだった。


「グオオオオオオッ!」


 リアム総長は魔獣に向き直ると、地を蹴った。その速さは、先ほどまでとは比べ物にならない。まるで一筋の閃光だ。


 白銀の剣が一閃する。

 断末魔の叫びを上げる間もなく、巨大な魔獣の首が胴体から離れて宙を舞った。


 圧倒的な力。

 絶対的な強者。


 魔獣が巨体を横たえ、地響きを立てる。静寂が戻った森の中で、騎士たちの歓声が上がった。


 だが、俺は動けなかった。

 勝利の立役者であるリアム総長が、血に濡れた剣を下げゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。


 彼の青い瞳は、もう魔獣を見てはいなかった。

 ただひたすらに、俺だけを。

 まるで長年探し続けた宝物を、ようやく見つけたかのように。


「見つけた」


 彼の唇がそう動いたのが分かった。

 逃げなければ。そう思うのに体は鉛のように重く、言うことを聞かない。


 彼は俺の目の前で膝をつくと、そっと俺の頬に手を伸ばした。鎧越しの冷たい感触ではなく、素肌の驚くほど熱い手のひら。


「ようやく、見つけた。……俺の、番(つがい)を」


 運命なんて信じない。そう思って生きてきた。

 けれど彼の瞳に映る熱烈な光は、抗いがたい引力で俺の全てを縛り付けていく。


 穏やかだった俺の世界が、音を立てて崩れていく予感がした。

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