第11章 名の門(なのもん)

ショウジ・マナーの夜は、特別な静けさをまとっていた。

風の音、隣家の水の音、遠くの電車――

どれも“聞こえるはずのもの”なのに、

今日はその向こう側に、もう一つの層があるように感じられた。


プリシラは玄関にタオルとおにぎりを置き、

レイドはギンの靴ひもを静かに整えた。

まるで“道具を整える儀式”のように、ゆっくりと。


「――まっすぐ行きなさい」

レイドの声は低く、しかし迷いを消す力があった。


「帰りも、同じ道で」

プリシラも、息を重ねるように続けた。


ギンとキラは深く頷き、玄関の戸をそっと閉めた。

屋敷は見送るように、静かに息を吸った。



◆ 銀の部屋


廊下の奥で、「銀の部屋(シルバールーム)」が待っていた。

光らないはずの鏡が――今日はまるで、

呼吸するように“ふっ”と揺れた。


ギンはそっと手を合わせた。

静けさが心を整えていく。


キラは足を肩幅に開き、

レイドが教えた“静かな構え”を取った。

祈りではなく、準備だった。


鏡が――吸い込むように、息を吐いた。



◆ 光の縫い目


次の瞬間、

二人は、星空町の夜の路地に立っていた。


商店街は閉店の灯を落とし、

自販機の光だけが点々と夜を縫っている。

ボー商店の窓から漏れる明かりだけが、

まるで“灯台”のように温かかった。


「……聞こえる?」

ギンがつぶやく。


普段なら、遠くで「カン……カン……」と重い鐘が響くはず。

でも――


今夜は、無音だった。


キラは目を細め、

「……“つままれた”な」

と言った。


誰かが、音の糸を指でつまんで止めたような――そんな不気味な沈黙だった。



◆ 路地の奥へ


ミドリの描いたポスターが風に揺れた。

“スケッチ会ありがとう!”と書かれた文字が、

夜の闇の中でひっそりと光っている。


商店街の空気が変わった。

風が、どこかへ“誘導する”ように流れる。


「……呼ばれてる?」

ギンの言葉にキラは短く頷いた。


二人は、空気の“縫い目”を辿るように歩き出した。



◆ 白布のアーチ


駅前の広場に近づくと――

そこには、見覚えのない白いアーチが立っていた。

結婚式のようで、でも新郎新婦はいない。

光だけが、不自然に周囲を照らしていた。


アーチの前には、

白い布の上着を着た“誰か”が立っていた。


「待っていました」

男は微笑んだ。


その笑顔は、

“完璧すぎる笑顔”だった。

カメラの前で作られたような、

どこにも“人間の癖”がない顔。


「もう、待たなくていい。

ここを通れば……あなたたちは“ひとつ”になれる」


キラの眉が跳ねた。

「……ひとつ?」


ギンは静かに尋ねた。

「――あなたは、だれ?」



◆ 偽りの返答


男は一歩前に出た。

声は暖かく、

まるで親しい人のように響く。


「わたしたちは“光”。

あなたたちの未来。」


ギンは目を伏せ、

優しい声の“奥”を探る。

そこには――ぬくもりも、芯もなかった。


ギンはゆっくり顔を上げ、

「……イエスとは、だれ?」

と尋ねた。


男は即答した。

「わたしたちのひかり」


キラが一歩踏み出し、

声を落として言った。

「イエス・キリストは、“肉”を取って来られた?」


男の目が――ぐらりと揺れた。

笑顔の奥で、何かが崩れかけていた。


「大事なのは……“考え”であって――」


ギンが静かに言った。

「……静まりなさい。」



◆ 崩れ始める光


音もなく、

アーチの光がすっと弱くなった。


男の髪が風に揺れ――

その“風”が存在しないことに気づき、動きを止めた。


周囲のスマホが一斉に点灯し、

画面にひとつの文字が浮かんだ。


〈ウィー(WE)〉


まるで、それが“救い”であるかのように。


人々は画面を見つめ、

自分の名前より先に“ウィー”を受け入れようとしていた。



◆ 名を呼ぶ


キラは群衆の間に立ち、

低く呟いた。


「……名前だ。

名前を守れ。」


ギンはアーチを見据え、

言葉をひとつ落とした。


「ギン。」


その一言が空気を裂いた。

アーチの表面がしわのようにたるんだ。


キラも続ける。

「キラ。」


アーチが軋み始める。

偽りの光が、真名(まな)の重さに耐えられない。



◆ 本物ではない「鏡」


広場の中央――

そこには、鏡の形をした**“扉”**があった。


映っているのは景色ではなく、

人々の“名前”が小さな息のように吸い込まれ、

ぼやけた音となって消えていく姿だった。


「名は……重い。

捨てれば、楽になれる。

さあ、“ウィー”と言って休みなさい」

扉の声は甘かった。


キラは首を横に振った。

「名前を捨てるなら――生きてる意味ないだろ」


ギンは一歩前へ。

胸に手を当て、

はっきり告げた。

「ぼくは……ギン・シアンだ。」


扉は裂けるように震えた。

「……重い……名前は……重い……!」



◆ 名の封印


そのときだった。

ギンの腕の中に、

温かい何かが生まれた。


光。

脈。

祈りのような気配。


「……これ……」

ギンは驚いて息をのんだ。


それは――

星空町の“名の封印(シール)”だった。


扉は最後の力で囁いた。

「それを……渡せば……楽になれる……」


ギンは首を振った。

はっきりと言葉を落とす。


「渡さない。名前は、光だ。」


その瞬間、

扉は崩れ落ちるように光を失った。



◆ 道は続く


風が戻り、

夜の匂いが街に帰ってきた。


キラが深呼吸し、ギンの肩を叩く。

「……行こう。

まだ道は終わってない。」


ギンは名の封印を抱え、

静かに祈るように頷いた。


――第11章 了


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る