第5章 鏡のひらくところ

翌朝、かすかな温もり。どこか懐かしいジャスミンの香り――ギンは髪の長い若い女性の腕に抱かれていた。女性が優しくハミングする。その旋律は小さな彼の世界に響き、幼い心の奥深くまで安らぎを届けていた。焦点の合わない視界の中、それでも家の明かりの柔らかな輝きと、自分を抱く女性の穏やかな表情がぼんやりと見えた。


「私の可愛いギン……あなただけが……」


 その言葉は時を超えた残響のように彼の心に染み渡った。その瞬間は永遠にも感じられたが、儚いひとときだった。彼がそれを掴もうとするより早く、眩い光がすべてを飲み込んだ。


 ギンははっと目を開けた。


 見上げれば、嫌というほど見覚えのある木の天井。かすかなカーテンの揺れる音、半開きの窓から滑り込む朝露の微かな匂い――同じ部屋だった。彼がこの世界に最初に目覚めたときにいた、あの同じ部屋だ。


 ギンの胃がぎゅっと縮こまった。


 夢ではなかった。


 ギンは枕に顔を埋め、全てを遮断しようとした。もう一度眠りに落ちて、あの温もりに帰れたなら——。しかし、そう願うよりも早く――


ガラッ!


 戸が勢いよく開いた。


「ギンったら! まだベッドで寝ているの? 朝なんてもうとっくに過ぎてるわよ!」


 プリシラが部屋に滑り込んできた。その動きは速度に反して優雅で、長い銀色の髪が後ろにたなびく。彼女は迷わずギンの掛け布団をはいだ。ギンは小さく呻いたが、抵抗はしなかった。


「さあ、」プリシラは素早くギンの乱れた髪を整えた。「世界が待っているんだから、いつまでもゴロゴロしてちゃダメでしょ?」


 ギンはため息をつき、されるがままベッドから引きずり出された。プリシラは軽やかでありながらもきびきびとした足取りで、彼を館の広い廊下へと連れ出す。精巧な障子戸の脇を通り抜ける。磨かれた木の床板が、紙貼りの窓から差し込む朝日を鏡のように映していた。


「まったく、キラなんてもう朝食も済ませて、元気に朝の支度もできているのよ」プリシラは相変わらず厳しい声で続けた。


 ギンは何か小声で呟いたが、大人しく従った。


「さっき何の夢を見ていたんだっけ……?」プリシラの後ろを歩きながら、ギンは自分に問いかけるように呟いた。



***



その日の夕方――


 夕方になると、柔らかな熱気と雨の匂いが漂ってきた。プリシラは窓を少し開け、台所に風を通した。調理台の上では、戸棚下の蛍光灯がミルクのように白い光を放ち、低くブーンと唸っている。味噌汁の鍋から湯気が立ち上り、わかめと澄んだ出汁の香りを運んでいる。彼女は袖をまくり、藍色の浴衣を軽く帯で締めて料理していた。それは実用的な木綿の着物で、歩くたびに裾がスリッパの先をかすめる。


「甘やかしすぎですぞ」戸口からレイドが可笑しそうに言った。


「食べさせるだけよ」彼女は器を傾け、その艶を確かめながら答えた。「信念で走っている坊や達だって、お米は必要でしょう?」


 まな板の上で、塩水で湿らせた両手で三角のおにぎりをぎゅっと握り上げた。プリシラは作業中レイドを見もしなかったが、その次の言葉は彼に向けられていた。「午後ずっと、この家…軽いような気がしていました」


 レイドは羽織の紐を一度緩め、正確な手つきで結び直した。布が指の下でさらりと音を立てる。「開けても動かぬ扉もありますからな」彼は流しに歩み寄り、丁寧に手をすすぎ、慎重に水気を拭った。その所作自体が、彼が口にしなかった祈りのようだった。


「レイドさんが和服を着るなんて知らなかったです。いつもスーツとかフォーマルな服装のイメージでしたから」キラが庭の収穫物のキュウリを入れたプラスチック容器を抱えて入ってきた。シャワーを浴びたばかりの髪から水滴が落ち、Tシャツが肌に張り付いている。


「ハッハッ、もちろんですとも、キラ坊ちゃん。私も自国の衣装は大いに嗜んでおりますからな」レイドは陽気に答えた。「いつかギン坊ちゃんとキラ坊ちゃんに着物を着せて、一緒に極東の星空町の住人に会いに連れて行きましょうぞ」


 キラは小さく笑った。「それは素敵ですね」(新しい身分ってやつに、ちょっと浮かれてるかも……) 彼は容器を下ろし、動きを止めた。魚屋の店先で魚を狙う猫のように、おにぎりをじっと見つめている。「……白米……」


「つまみ食いは禁止よ」プリシラは顔を上げずに釘を刺した。


「いや、その……バランスが良さそうだなって言おうとしただけ」キラは取り繕うように言った。しかし結局、自分を裏切るように付け加えてしまう。「一個だけなら、いい?」


 プリシラは小皿を彼にそっと差し出した。「んん、勇気付けにね」


 キラは口元を横に引いた。「勇気って戦うときに使うもんだと思ってたけど」


「勇気の大半は待つためにあるのよ」彼女は残りのおにぎりを布で包みながら言った。「後で食べる分、包むのを手伝ってちょうだい」


 二人は和やかな沈黙の中で手を動かし続けた。ご飯を乗せ、握って、返して——海苔をそっと巻く。そのとき、古い冷蔵庫がブーンという音を止め、静寂が一段深く落ち着いた。中庭では夜蝉が声を試すようにリーン……と鳴いていた。


 ギンがいつの間にか戸口に現れ、柱にもたれていた。少し前にプリシラに整えられた髪は、まだ言うことを聞かず跳ねている。足元は綺麗な靴下、上はパーカーに短パン――外に出るか部屋にいるかをまだ決めかねている少年にありがちな、小さな無意識の制服だ。彼はプリシラの手から布の上へと渡される三角のおにぎりを目で追った。気づかぬうちに、自分の手もその握り方を真似してしまっている。


「お腹空いた?」ようやく彼女が顔を向けて尋ねた。


 彼は首を振った。「また後で」


 レイドの視線がギンに移り、探るように問いかけた。「少しは眠れましたか?」


「ちょっとだけ」ギンは何か言いかけて、やめた。廊下脇の棚に触れる。そこにはかつて狐の根付が置かれていて、微かな埃の輪が痕のように残っている。「まだ取ってあるのか」壁にも届かぬほどの小さな声で言った。


 プリシラはその言葉の含みを察し、布包みをきゅっと畳んだ。「戻ってきたら食べさせるわね」予定を確認するように言うと、その包みを小さな籠に入れて戸口に置いた。簡素だが、頑固な約束だった。


「なあ、今朝さ、面白いヴィジョンを見たんだ……」ギンがキラに小声で話しかけた。ギンは今朝見た夢の内容をそっと打ち明ける。長い髪の女性に抱かれていたこと、何か囁かれたこと——。キラは小さくうなずき、「今は胸にしまっておこう。落ち着いてから聞かせて」と静かに返す。ギンの胸には確信があった——あれは自分の母親だった、と。なのに彼女の顔さえほとんど思い出せない自分に、ギンは茫然とせざるをえなかった。


 ブッ、とキラのスマホが一度震え、すぐ静まった。キラは画面を一瞥すると、それを伏せて通知を無視した。


 レイドが静かに咳払いをした。「東の中庭へ。型の稽古をなさい」キラにそう告げ、ギンに目を向ける。「何かあれば、屋敷中どこにでも私がおります」


 ギンは短く幼い笑みを浮かべ、「はい」と答えた。


 プリシラはギンの肩にそっと触れ、それからシンクの片付けに戻った。お湯を出すと眼鏡が湯気で曇る。「出て行ったときと同じ姿で戻って来るのよ」と、水音に紛れるように、小さな声で——蛇口に向かって、自分自身に言い聞かせるように、そして神に祈るように——呟いた。


 誰も反論しなかった。



***



銀の間――息づく鏡...


 今夜の銀の間は、やけに広く感じられた。背の高い鏡の中で、ギンの映像が揺れている。眠れなかったせいで、その瞳は異様に冴えていた。障子の上にあるLEDライトが微かに唸り、床一面に青白い光を投げかけている。外では縁側の屋根を雨が静かに叩き、その一定のリズムが、彼の鼓動が生み出す隙間という隙間を埋めていた。


 彼は両の手のひらを擦り合わせた。祈るためではない。震えを抑えるためだ。靴下越しに床が冷たい。廊下のどこかで古い冷蔵庫がブーンと唸り、それからカチンと音を立てて止まった——静寂がもう一息、深まる。


 彼は狐の根付が置かれていた空の棚に目を向けた。淡い埃の輪が、その輪郭をかろうじて示しているだけだ。「まだ取ってあるんだね」と壁にも届かぬほどの小さな声で言った。


 頭上の明かりが一度ちらりと瞬き、それからまた安定した。鏡の表面に淡い揺らめきが浮かび上がった——吐息のようにか細く、それが畳の上に霧のように広がってゆく。それはギンの呼吸と歩調を合わせるかのごとく膨らみ、ゆるやかな満ち潮のようだった。


 一方、中庭では、レイドが羽織の襟を正しながら動きを止めた。小径沿いの庭園灯が不意に薄暗くなる。館を駆け抜けた高まりに感知センサーが戸惑ったのだ。池の水面に映った景色にも、銀色の柔らかな光が意図的に波紋を描いている。レイドは目を閉じ、頭を垂れた。唇が動くが、声は出ていない。


 キラは軒下で木刀を構えて型を取っていた。心の中で型の実況をするのはやめていた——無言の身体のほうが冴えるからだ。手中の木は馴染んでおり、確かな重みを伝えてくる。息を整えようと口を開き、そして、理由もなく東棟のほうを見やった。


 銀の間では、揺らめきがさらに濃くなった。


 ギンは鏡に一歩近づいた。空気は冷えていないのに、彼の吐息がガラス面を曇らせる。棚の埃の輪が一瞬、光を帯びた。それは光自身の記憶が蘇ったようで、そしてすぐに——従うように——静止した。


 ギンは手を伸ばした。


 鏡の表面が震え、彼の呼吸に合わせて息づいている。LEDライトが幽かな青さまで光を落とした。電気の唸りが、高い一本の糸のような音に絞られ、それもやがてかき消える。轟音も雷鳴もない——ただ、ガラスがかつて水だったことを思い出すような静けさだけがあった。


 鏡の中の自分が前のめりになる。彼は表面に触れた。


 冷たさ、そして光。


 銀の間は、その発生源さえ消し去るほどの眩しい白で満たされた。それは閃光ではなく、一つの「存在」だった。


 下では庭園灯がカチリと元通りに点いた。雨音はより細い筆跡のような静かさに変わる。レイドは息を吐き、廊下には叫ばなかった言葉を池に向かって告げた。


「……通ったな」



***



 最初は、足元には何もなかった。光がギンの肘下に手を添えて支えているかのようだった。匂いは、降りたての雨が綺麗なコンクリートに当たるような匂い、そしてそれよりさらに古い何か——杉の木箱や窓辺で干されたリネンのシーツのような香り。下を見ようとしたが、「下」というものがなかった。ただ同じ柔らかな輝きが広がるばかりで——眩しいというより、ただ説明のつかない光だった。落ちていないのに落下しているような感覚、持ち上げられていないのに運ばれているような感覚。


 そして、形が戻ってきた。


 気づけば彼は四車線の道路の上に架かる歩道橋に立っていた。街は濡れた反射に封じ込められている。赤いブレーキランプの光がアスファルトに滲み、二重に映っている。向こう側では、コンビニの看板がカタカナで輝き、安っぽい蛍光灯の温もりを放っている。バスが停留所でシューッとブレーキを利かせ、ため息のようにドアを開けた。雨に煙る光の中を、人々が長い文章の句読点のように行き交う。


 誰も上を見ない。


 ギンは唾を飲み込んだ。運転手のラジオが聞こえ、途切れたジングルが流れている。傘の開閉するパッという音が、小動物の呼吸のようにあちこちで響く。歩道橋のガラス壁に自分自身の姿が映っている——いるはずの場所に、ちゃんと少年が立っている。しかしギンが手を挙げて振ってみても、自転車置き場で煙草に火を点けている男は驚きもせず、まばたき一つしなかった。


 ギンはさらに壁に近づいた。雨に焼けた金属の匂いが感じられるほどに。母親に手を引かれた子供が立ち止まり、ほんの少しだけ首を傾けた。まるで夢の端で何かの煌めきを捉えたかのように——だが次の瞬間、人波に連れ去られていった。


「……よし」欄干に向かってギンは呟いた。「これは……大丈夫」


 周囲の空気がはっと身構えた。また動き出す前の動物のように。2ブロック先のどこかで踏切がガタンと下り、カンカンカン…と無人の列車に時間を告げている。


「行きたいところへ行け」誰に言ったのかわからないまま、ギンはそう口にした。その言葉が真実であることに彼自身驚いた。


 彼は階段を下りた。排気ガスや湿った新聞紙、正体のわからない屋台から漂う揚げ菓子の匂いを吸い込みながら。靴が階段を踏む音は何もしなかった。あるいはしていたのかもしれないが、街がただ聞こうとしなかっただけなのだろう。


 地上に降りると、路肩に沿って細い川が流れていた。タバコのフィルターと、一枚だけ流れてきた木の葉を筏のように載せて。水が葉っぱをぐるぐると翻弄し、回転させるのを彼は見つめた——そしてそれを見た。流れに逆らうように走る、暗い筋。息が詰まるように停滞したさざ波だ。


 波紋が形を集めていった。


 言葉が先に来た。それはギンの声でギンの声ではない響きを伴っていた。「祈るのが遅かったな」


 水面がざわめき、街灯の映り込みが無数の断片に裂かれた。

「溺れていればよかったんだ」


 暗い筋は低い塊となって厚みを増し、濡れた影が自らを形作っていく。それは水から持ち上がったというより、水に口の役割をさせているようだった。


 ギンは縁石のところで立ち止まった。雨が額の生え際を打ち、そこで静かに留まった。


 彼は一歩も退がらなかった。


 影の縁が蠢いた。それは嵐の後の地下室のような匂い、古びた硬貨のような匂い、悲鳴の直前の瞬間のような匂いがした。目は無いはずなのに、それはギンを見据えていた。彼の胸の内から何かを引きずり出し、それを見せつけるように掲げている。


「遅かったな」そのモノはギンの小さな声を内に宿しながら言った。「判決はもう下っていた。お前は恐れてすがったんだ」


 あたりを見回して助けを求める相手はいないし、この影に話しかけずに助けを呼ぶ方法もない。残された正直な行動は、答えることだけだった。


「怖かった」ギンは言った。


 影は満足げに形を変えた。「臆病者」と言おうとしたのか。しかしその言葉は滑って定着しなかった。


「それでも……頼んだ」ギンは言った。


 暗い筋がきゅっと縮まり、それから緩んだ。結局は筋など無いのだと知って驚いたように。


 一台のバスが通り過ぎ、しぶきが縁石に当たってジュッと音を立てた。そのとき、恐怖より古い何かが静まるのを、ギンは感じた。ギンは目を閉じ、言葉を探すまでもなく、それが口から出ていた。


「…憐れんでください」


 何も動かない。やがて影がゾワリと身震いした。低い獣の警告のように。さらに冷たい冷気が間近に迫った。それとともに、明るい光の中で灰が静寂へと変わっていく記憶が蘇る。喉がきゅっと縮んだ。雨が頬骨に沿って一筋の線を描き、それが糾弾なのか祝福なのか——ギンには判別がつかなかった。


「……静まれ」彼は囁いた。


 波紋は途切れた。激しくではない。それがなろうとしていたものを、ただやめてしまった。暗い筋はつるりと消え、捕まっていた葉はそのまま流れていった。硬貨の匂いは薄まり、消えていった。水が苛立っていた場所に、ほんの一拍分だけ澄んだ部分が残った。そこに「赦された者」という文字がかすかに浮かび上がり、指でなぞったようにすぐ掻き消えた。


 ギンは目を開けた。街は相変わらず街のままだ。どこかでサイレンが遠く鳴りかけては、また止んだ。傘の下で女性が笑い声を上げ、どうして笑ったのかわからず首を傾げた。


 ギンはその澄んだ部分が澄んでいることを忘れてしまうまでじっと見つめ、それから欄干に両手を置いて息を吐いた。拾い上げるものは何もなかった。ポケットにしまえるものも何も。それでも、恐怖が立っていた場所には何かが静かに据わっていた。それが何なのか、名前にするまでもなく理解していた。


 蛍光色のベストを着た男が高架下に立ち、配電ボックスをいじっていた。この場には場違いなほど普通の存在——答えだと思うには地味すぎる男だ。しかしギンが見下ろすと、彼は見上げた。その顔には、静寂が何かを成しているときに人が浮かべる類の自覚があった。


 男はボックスに手を当て、それから帽子のつばに触れた。「踏切は正常に動いていますよ」誰にともなく言った。その口調は、誰かにセリフを与えられ、その通りに述べている人のようだった。「ベルが鳴ったら渡っていいですよ」


 二ブロック先でベルが鳴った。ガラスをおたまで叩くように清らかな音だった。


 ギンはその指示に向けてうなずいた。「……よし」


 ギンは左に曲がった。川は元の姿に戻り、元の流れを取り戻している。それに沿って歩き出した。



***



 屋敷では、家が真夜中の習わしへと静かに移行しつつあった。廊下の常夜灯が床板に淡い楕円形の光を落としている。どこかで給湯器が古びた金属の歌をチッチッと奏でている。洗濯機は動きを落として停止し、パネル上の赤い点灯が満足げに瞬いた。


 プリシラは玄関と裏口の施錠を確認し、朝に濡れた靴を置くため玄関にタオルを敷いた。それから、照明のスイッチに手をかけたまま、ふと動きを止めた。戸口のそばには、おにぎりの包みが小動物のように寝床について待っている。本当はそれを銀の間に運び、供え物のように置きたい衝動に駆られた。しかし、供え物というものはしばしば独りよがりな見せ物になる——そう彼女は学んでいた。彼女はそのままにしておいた。


 彼女は廊下を静かに歩き、東棟の前で足を止めた。軒下では、キラとレイドが並んで立っていた。その姿は、まるで「夜間稽古」のカタログ写真でもありそうな光景だ——もしそんなものがあるなら——。だが二人の佇まいには、宣伝写真にはない人間らしさが滲んでいた。レイドが指二本でキラの肘をそっと動かした。キラはバランスを移し、苛立ちと安堵が先を争って表情に浮かんだ。


「お茶をどう?」ずっと手に持っていた盆を持ち上げ、彼女は言った。まるで今になってそれがあるのに気づいたかのように。


 レイドは軽く一礼した。キラは静けさを取っ手で支えるような手つきで湯飲みを受け取った。湯気がくるりと立ち上り、庭の灯りに捉えられてから、跡形もなく消えた。


「ありがとうございます」キラは礼を言った。それはお茶に対してではなかった。


 プリシラは癖で彼の袖に指の関節を軽く触れさせた。仕草というより習慣だった。「冷えてきたら中に入りなさいね」


「もう冷えてるよ」キラが言った。


 彼女は彼が本当に伝えたかったことを察して微笑み、室内へ戻っていった。



***



 街はギンが迷子にならないように、自分でも自覚しない手つきで周囲を並べ替えた。ギンはそれに気づいたが、どう受け止めればいいかわからなかった。彼は試しに、足がまっすぐ進めと促すところをあえて右に曲がってみた。数ブロック進むと道は別の通りへと変わり、小さな運河に架かる橋に出た。その照明は、誰かが鏡をガーゼで包んでいるのを連想させた。橋の端では、白い猫が木箱の山からギンを見てまばたきし、ゆったりとした会話のように尾を揺らしていた。


 ギンはしゃがみ込んだ。そのほうが公平だと思ったからだ。猫は礼儀正しく一定の時間、ギンの視線を受け止め、それから彼を無害な天気現象と見なしたようで、再び猫の営みに戻った——前脚を舐め、耳を擦り、完全な無関心を装って。


「僕が見えるのか?」ギンは半ば愚かだと思いながら尋ねた。


 猫はクシュンと小さなくしゃみをして、また顔を洗った。


 背後で何かが動き、ギンは身を起こした。まだ半ば屈んだ姿勢のまま。空気がまたガラスの塊のように濃密になった。ただし先程とは違う——澄んでいて、取引しようという気配がない。感じられない風が電柱に貼られたシールの帯を揺らした。一枚のシールの端がめくれ、その下にほんの一日古い別のシールが、そのさらに下にはペンキが覗いた。


 最初の大粒の雨がぽつりと落ちてきた——太い句読点が一つ。


 ギンは振り向いた。


 羽も見えない。ローブも見えない。三十代半ばくらいの男が見えた。写真に残らない類いの、ごく平凡な服装をした男だ。ハンサムではなかった——もし「注意深さ」を美しさの一種と見なさない限りは。彼は静かな部屋でランプを灯すように、その注意深さを湛えて立っていた。彼の拳にはペンキが付いていた。何かを修理した直後で、まだ洗っていないかのように。


 男は会釈した。まるで隣人に対する挨拶のように。「こんばんは」


 ギンはそれが疑問であるかのように振る舞わなかった。ただ会釈を返した。


 男の視線はギンの肩越しの空間に留まっていた。ギンが通ったときに空気が作った形を眺めているかのように。男は手のひらを上に向けて差し出した。何かを掴もうとも、掴ませようともしていない。


「渡しのある道だけを進みなさい」天気を伝えるような口調で男は言った。「自分の名前を呼ばない声に答えてはなりません」


 ギンは「あなたは誰ですか」とは尋ねなかった。今夜すでに学んだのだ——間違った方向に名前を問いただすことは招待状を差し出すようなもので、好奇心を装った誇りもまた罠になり得るということを。


「どうすれば――」ギンが言いかけると、文が目的語に名詞を置くより先に、男は再びギンの先を見据えた。命を懸けて信頼できる情報を受け取った者のような特別な注意を払って。


「彼女が祈っているよ」男は静かに言った。その一瞬、彼の口元にプリシラの慈愛が浮かんだ。だがすぐにそれは消え、年長者から借りてきたような口調に変わった。「君はじきに一人ではなくなる」


 安堵にも似た感覚がギンの体を駆け抜け、膝から澱みが消えた。「……よし」とギンは言った。混乱に身を任せるか秩序を選ぶか——そして秩序がいま差し出されたのだから。


 男は手を下ろした。「鐘が聞こえる。その合図を待ちなさい。そして、鳴ったら行きなさい」


 男は一歩退き、そこでの役目を終えたかのように、すっと姿を消した。


 ギンはしばらくその場に立ち尽くし、それから男が立っていた場所に向かって静かに頭を下げた。感謝とは、向かうべき方角があるものだから。


 猫は眠りに落ちていた。あるいは、自分が眠ったと思い込ませて世界を欺いているのかもしれないが。ギンは頬の内側で微笑み、再び歩き出した。



***



銀の間――二人目


 館は静かに息を吐いた。レイドはキラの木刀を脇に置き、彼を東棟の廊下へと導いた。彼は急ぎもしなかったが、もたつきもしなかった。その組み合わせは、それ自体独特の切迫感となっていた。


 二人は写真が飾られた壁の前を通った。キラは手を伸ばしかけ、動きを止めた。指で額縁に触れて指紋を付けてしまう前に、そっと手を引っ込める。磨き上げられた銀の間へ続く廊下の床板に足を踏み入れると、人感センサーが反応し、LEDライトが一つ、また一つと点灯した。館が彼らのために空間を開けてくれた。


 入り口でレイドは立ち止まった。彼はキラの肩に触れなかったが、その静止が触れたも同然だった。


「才知では開きませんよ」咎めるでもない口調で彼は言った。


「分かってる」キラは言った。その「分かってる」には、分かっていることへの苛立ちが滲んでいた。


「よろしい」レイドが言った。その刺すような言葉には優しさが込められていた。「君は必要だから行くのではない」彼は廊下の空の棚——埃の輪が残り、あたかも何かがまだ存在しているかのように佇む小さな不在——に目をやった。「君は、最初に愛されたから行くのだ」


 キラは鼻から息を吸った。


 レイドは一礼した——それは見せかけではなく、命を持ち主に返すような敬虔な一礼だった——そして脇に退いた。「準備ができたら行きなさい」


 キラは中へ入った。


 銀の間は銀の間だった——見慣れたものでありながら、同時に何かがおかしかった。LEDライトが微かに唸っている。大きな鏡は、鏡があるべき場所に立っている——馬鹿げているほどありふれた姿で。空気には、ギンを呑み込んだ光の余韻が漂っていた。それは温度に頼らずしてキラの腕の産毛を逆立てた。


 彼は物事の仕組みが理解できない状況が好きではなかった。時に自分は、問題を起こすのに十分な程度だけ物事を理解してしまうこともあり、それも気に入らなかった。


 キラは鏡に歩み寄り、そこには自分自身と背後の部屋の残像しか映っていないのを確かめた。自分の目の下に滲んだ疲労の色は見ないようにし、ギンがいるだけで和らいでいた口元の強張りも見ないようにした。


「自分の名前を忘れた声に答えるな」彼は囁いた。その言葉が部屋のものなのか、自分自身のものなのかは判然としないまま。


 彼はレイドに教わった通りに足を構えた。足裏を大地にまっすぐ揃え、膝は軽く曲げ、背筋は強張らせずに従順に伸ばす。両手を体側で開いた。鏡が邪魔になるだろうから、目を閉じた。


 彼は長々と言葉を尽くすことはしなかった。何かのリストに載せてくれと求めもしなかった。彼は自分が持てる小さな真実を口にした。


「行きます」と言って、喉を鳴らし、それから——自分でも驚くほど、ほとんど笑ってしまいそうになるくらい薄い勇気を振り絞って——「あなたと共に」


 それは完璧な言葉ではなかった。英雄にふさわしい台詞でもなかった。しかしそのどちらよりも正直だった。


 唸り音が細くなった。LEDライトはギンのときと同じように、あの幽かな青色まで光を落とした。館が片足からもう一方へ体重を移した。物語を聞いている人が無意識に身を乗り出すように。


 キラは目を開け、鏡の縁に最初の波紋がかかるのを目撃することができた。


 鏡が息を吐いた。


 キラは一歩踏み出し、自らに課せられたことを成した。



***



 鐘の音が街中に清く響き渡った。


 ギンは電線が張り巡らされた踏切のそばに立っていた。遮断機のバーが持ち上がる。警報機の赤いライトが静止した。遠くからの呼びかけに応えるように、レールが歌を奏でていた。ギンはその歌が自分たちを解放するまで待ち、それから渡った。


 通りは、本屋だった建物が教会に改装された建物を正面に臨む小さな広場へと続いていた。看板には色褪せたローマ字で「KAWATANI BOOKS」とあり、その下には新しいプレートが歪んで取り付けられていて、「日曜礼拝時間」と火曜日には誰も出ない電話番号が記されていた。ガラス越しに、薄い座布団の上に小さな集団が跪いているのが見えた。少年の声が、机には大きすぎる本から一節を読み上げていた。子供が子音の多すぎる名前でつまずくと、誰かがそっと笑った。


 その笑い声がギンの立つ場所まで届いた。なぜ自分の喉が痛むのか理解するのに、一瞬かかった。ギンは手を上げて喉に当て、それから手を下ろした。


 窓ガラスに、広場の映り込みの中でギンの姿が捉えられていた——そしてその隣に、ガラスにだけもう一つの人影が歩み寄り、ギンと同じ背丈だが肩の線が異なっていた。キラだ。けれど、それはあくまで約束のような映り込みにすぎない。ギンは振り返らなかった。ガラスが必要な事実を教えてくれるままに任せ、もはや確かめる必要はないと悟り、ただそれを信じた。


「……よし」ギンはもう一度言った。この言葉は、何度使っても不思議と効き目があった。


 背後では高校生の二人組が、一つのパーカーを二人で被りながら急ぎ足で通り過ぎていった。背の高い方が、問題集を忘れたことで背の低い方を叱っている。二人の発する喧騒は、かつてはギンの世界のすべてだった音だ。そして今では、彼が玄関先に掛けたままにしているコートのようなものだった。


 ギンが顔を上げると、蛍光ベストの男が広場の向こうに立っていた。今度はほうきを手にしている。彼はあらゆる場所で仕事を見つけ出したのだ。男はほうきの先端で路地裏の方を示した——建物の間にある細い裂け目のような路地で、かすかな光が集まっている。まるで扉が少しだけ開いて、まだ大きく開かれていないかのように。


 ギンはうなずき、そちらへ歩き出した。



***



 屋敷で、プリシラは銀の間の外に立っていた。しかし、彼女が何を口にしようとも、この家が許す文には遠く及ばないのだと悟るのに、それほど時間はかからなかった。それから自室へと歩み去った。彼女は浴衣をハンガーに掛けて畳み、襟を整えた。それから帯の結び目を、求められる仕事は終えてもその誇りは捨てていない女性に特有の手つきで緩め直した。彼女はベッドの縁に腰掛け、両の掌を合わせた。時に、心が行っていることを身体に思い出させるために助けが必要になるからだ。


「二人を……連れ戻して」彼女は三度目の祈りを口にした。今度は懇願というより、鏡が解する台本に書かれた計画のように響いた。


 夜が耳を傾けていた。



***



 キラが“向こう側”で最初に吸った息は、線路脇の換気口からの熱気と、ガラスを伝い落ちる雨の澄んだ匂いが混ざった味だった。彼はギンが立っている場所から遠くない地点に立っていた——もっとも、お互いまだ相手の姿は見えていない——そして同じ街が彼にも場所を用意した。違う通りだが、同じ教訓を教えるための場所を。


 電柱に貼られたポスターが気泡を吹いて捲れ、また元に戻った。キラはそれを直そうと手を伸ばし、やめかけた。それでも結局は直した。親切は誰かに見られる必要などないのだから。


 ブロックの突き当たりで、壁際に影が膨らみ、キラが信じてしまいそうな形を試した。それは彼の名に取り付くことができず、壁を伝ってずるりと滑り落ちていった。不愉快ではあるが、役目を失った影だった。


 鐘の音が鳴ると、キラは振り向いた。どうして振り向いたのかわからなかったが、路地に伸びる光の筋を見て、自分が招かれたのだと悟った。


 キラはその狭間へ足を踏み入れた。世界は煉瓦の匂いと、裂けた空の一筋だけにシンプルになった。


 路地の中程で、彼は立ち止まった。囁き声が古い論理を彼に試してきた。「もしお前がもっと強かったなら——」それは上品に語り始めた。ちょうど教師が証明を始めるように。


「違う」キラは優しく言った。「その扉じゃない」


 その囁きは濡れた紙のようにくしゃりと折れ、声になれない場所へと沈んでいった。


 路地の突き当たりでは、子供が追いつくのを待って息を止めているかのように、光が待っていた。



***



 二人は路地が広場の裏手へ吐き出す出口で出会った。雨樋から漏れる雫が彼らの肩をまるで天気の一部に変えようとしている場所だ。二人は駆け寄らなかった。示し合わせもしなかった。ただ左へ、右へと一歩ずつ動いて、お互いが隣に並ぶ位置についた。そして——そのとき初めて——視線を交わした。


 先に笑ったのはギンだった。それは涙が全てを奪い尽くさないようにするための、小さな笑いだった。キラは、明るい部屋では決して見せないような無邪気な笑みを浮かべた。


「遅かったね」ギンが言った。


「お前が先に行ったんだろ」キラが言った。二人とも、それが文字通りの真実ではないことを知っていたが、十分な真実でもあった。


 教会の扉が開き、女性がゴミ袋をゴミ箱に運びながら、“grace”(恩寵)と聞こえる単語を含む鼻歌を口ずさんでいた。彼女は二人に気づかなかった。一度身震いした——誰かが窓を開けっ放しにしたかのように——が、すぐに震えは止んだ。自分でも明日には説明のしようがない何かに暖められたのだ。ただ、それは別種の嵐が来たときに思い出すことになるだろう。


 ほうきを持った男はそれを軽く持ち上げ、誰にでもなく、すべての者に向けて、そして神に向けて挨拶をした。それから、小さな広場を夜明けまででも掃き続けられるかのように、また掃除を始めた。


「どこへ?」キラが尋ねた。世界の全てをその問いに押し込めようとはせずに。


 ギンはほうきが示した光の筋のほうへ顎をしゃくった。「踏切だよ」ギンが言った。「鐘が鳴ったら行こう」


 キラはうなずいた。「それで、もし俺たちに何かが話しかけてきても、俺たちの名前を口にしないようなら――」


「雇わない」ギンが言い終え、そして、希望にはユーモアが許されていると知っていたから付け加えた。「俺たちにはもうボスがいる」


 二人はしばらく立ち尽くし、街の持つ変わらなさと奇妙さが足にその文法を教え込むままに任せた。雨はさらに柔らかな線を描いて降っていた。どこかで自転車のベルがチリンチリンと二回鳴った。それは笑い声とまったく同じ響きだった。


「腹減った?」とキラがようやく尋ねた。


 ギンは微笑みを少し傾けた。「食べ物を置いてきちゃった」


「ほっ、だろうと思ったよ」キラが言った。彼は大きく息を吸い込んだ。「よし。鐘が鳴ったら、だ」


 鐘が鳴った。


 二人は歩き出した。



***



 館は眠らなかった。そういう館は眠らないものだから。人々が脈の刻み方を思い出そうとしている間も、館は脈拍を刻み続ける。台所では、おにぎりが自ら聖礼典の練習をしているかのように、静かに待っていた。中庭では、池が輪を描いて同意の意を示した。廊下の端では、レイドが柱にもたれて座り、二つの呼吸の合間の空間に目を注いでいた。手を組んだその様子は、信頼そのもののようだった。


 雨脚が弱まると、プリシラは再び窓を少し開け、家と祈りを街へと換気した。彼女は頭をわずかに垂れ、髪を下ろしたまま佇んでいた。それは、知らず知らずのうちに一生をかけてこの夜のための練習を積んできた女性のように見えた。


「二人を連れ戻して」彼女は三度目にそう言ったとき、声は懇願というより、鏡が理解できる脚本に記された計画のように響いた。


 館が同意した。鏡は呼吸を続けていた。そして、彼らに愛と恐れと「大丈夫」という言葉を教えてくれたあの街の中で、二人の少年は歩いていた。鐘に導かれ、ある御名に守られながら、従順だけが記すことのできる巻物に向かって。大半の人々が眠っている間になされる仕事——それはなお、なぜか世界を目覚めさせる仕事——を、彼らは成し遂げつつあった。

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