鏡の中の雪を紅く染めて

ぬまのまぬる

第1話 僕と幼馴染

 うまく動かない指に腹を立てて思わず投げつけた編みかけのレースが、木にぶつかってかすかな音と共に落下した。


「……ルカ」


 突然呼びかけられて、気まずい気持ちを隠しながら振り向く。


 こんな村はずれの木陰には誰もいないと思っていたのに。


 北風で少し葉も落ち始めた木々の向こうから、幼馴染で同い年のローザが茶色い毛の生えた耳を揺らしながら覗いていた。


「あ、ローザ、ごめん……やっぱりおばあちゃんみたいにはうまくできないや」


 僕の右手は、10年前――まだ3歳だったときの怪我のせいであまり動かない。


 森の向こうにあるお城で開かれていた狩りの大会で、誰かが放った矢が当たったからだとおばあちゃんは悲しそうに話してくれた。


「ルカの手、よくなるといいね」


「……うん」


 多分よくなることはないだろうと分かっていた。別に今だって、少し力は入りにくいけど左手を使って薬草を摘んだり干しきのこを作ったりすることはできる。どうってことはない。


 ただ、おばあちゃんが作るみたいなきれいなレースの髪飾りを作ったら、ローザは喜んでくれるんじゃないかな、と思っただけだ。


「そろそろご飯だよ。帰ろうよ」


日が沈みかけて、辺りは夕闇に包まれ始めている。


「……そうだね」


 レース編みを拾い上げてローザに向き直ると、彼女の手が、草の汁で茶色く染めた僕の前髪に伸びた。


「ルカの目って、やっぱりとってもきれい。菫と、夕焼けと、宝石が混ざったみたいな不思議な色」


「……僕はみんなと一緒がよかったな」


 僕はまだ赤ん坊だったときに、森の中に捨てられていたところをローザのおばあちゃんに助けられたらしい。


 普段はフードと茶色く染めた髪で隠しているけれど、村のみんなと同じような毛の生えた耳は持っていなくて、代わりに変な薄っぺらな耳が頬のあたりにある。


 目の色もみんなと違うから、前髪を長く伸ばして隠していた。きれいなのかどうかはよく分からない。


「ルカはそう思うかもしれないけど、私は好き」


ローザが耳と同じ薄茶色の目を細くして笑う。


僕はその笑顔がとても好きだ。


 ずいぶん暗くなって足元がおぼつかないので、僕は一度目を閉じてあまり動かない人差し指で地面を指した。


すぐに、ゆらゆら揺れるオレンジ色の日が辺りを照らす。


 こんなことができるようになったのはたしか10歳の時だ。手があまり動かない代わりに、別の何かを神様がくれたのかもしれない。


 足元に長い影が伸びる。もう少しで手を繋げそうな距離なのに、なかなか指先をあと少し伸ばせない。





「おばあちゃん、ただいま」


 ローザが隙間だらけの木の扉を開けると、おいしそうなスープの匂いが漂ってきた。


「お帰り、ローザ、ルカ」


温かい声が僕たちを迎える。


 ローザのお父さんとお母さんは装飾品や石、それに薬草を売りに町へ出かけてから帰ってこなくなってしまった。


 もう12年も前の事だから、僕は二人の顔をほとんど覚えていない。僕にとって家族はローザとおばあちゃんだけだった。


 こんな日々がいつまでも続いてほしいと、僕はぼんやりと願っていた。


 今なら思う。


 もっと強く願えばよかったのかもしれないと。



             *



 相変わらずレースはうまく編めないまま、日に日に夜が長くなっていった。もう怒って放り投げることはしないけれど、作りかけのレース編みも日に日に増えていく。


 おばあちゃんは体調を崩しがちになり、編み物はあまりしなくなった。ローザの髪飾りも、新しいものは増えていない。


「『金色の花』があれば、きっとうまく作れるようになるのにね」


 足元に転がっているレース編みを見て、ローザは悲し気に目を伏せた。


「あんなのおとぎ話だよ」


 金色の花というのは、おばあちゃんが聞かせてくれたおとぎ話に出てくる魔法の花だ。森の奥に咲いていて、その花びらで怪我をなでるとすぐに良くなるらしい。


「でも、もしかしたら本当かもしれない」


 ローザが真剣な顔で僕を見る。確かに僕の手がもっとしっかり動くようになれば、おばあちゃんが作っていたような装飾品をもっとたくさん作って町で売ることができる。


 町へ行く時は、なぜだかみんな僕が普段身に着けているようなフードをかぶって出かけて行く。僕が耳を隠すためにそうしたところで、怪しまれることはないだろう。


「本当ならいいよね」


僕は小さく答えた。


「うん、私もそう思う」


 ローザはいつもの、僕の大好きな顔で笑った。




 次の日。僕が薬草摘みから帰ってきた時には、ローザは家にいなかった。


「おばあちゃん、ローザは?」


「まだ森から帰ってきていないんだよ」


 辺りはもう真っ暗だ。こんなに暗くては道に迷ってしまうかもしれない。


「……大丈夫かな……」


「野犬除けの薬包は持って行ったんだけど……それにしても遅いねえ」


 ローザがこんなに遅くなることなんて今までなかった。もしかして、転んだりして怪我をしたのかもしれない。


『お城で狩りがあってね、その時の矢が……』


 僕の怪我について話してくれたおばあちゃんの言葉を思い出して心臓が縮みあがる。


「あの子はそんなに無茶はしないから大丈夫だと思うけどねえ……」


 おばあちゃんの声がかすかに震えていた。


 嫌な予感なんて気のせいだ。きっとすぐにローザは帰ってくる。

だけど。


「僕、迎えに行ってくる」


おばあちゃんが何か言う前に、僕はオレンジ色の灯りと共に家を飛び出した。



 木の葉の擦れる音が、不気味に響く森の中。急く気持ちを抑えながら一歩一歩足を進める。


 草や枯れ木を踏みしめる自分の足音さえもどこか恐ろしくて不安を掻き立てていた。


 灯りに照らされた足跡は森の奥へと続いている。これをたどっていけばローザに会えるんだろうか。だけど、どうしてローザは戻ってこないんだろう?


 ふと、かすかな足音がした。ローザの足音とは少し違う気がする、もう少し重いような足音。そして、風に乗って感じる嫌な臭い。


 変な風に踊り出す心臓を抑えつけるように、足跡をたどりながら木々をかき分ける。むき出しの、あまり動かない右手をガサガサした木肌が傷つけていく。


 進むにつれて少しずつ嫌な臭いは濃くなってきているのに、間違いなく足跡は臭いの方向へと続いている。進みたくないけれど、進むしかない。


 更に枝を搔きわけると、足元にあった小枝を踏んでしまい、鈍い音を立てた。そして、折り重なった木の影の向こう。


 驚いたように走り去る誰かの後ろ姿が一瞬視界に入ったが、すぐに地面に転がっているそれに目を奪われる。


 オレンジの灯りに照らされた、倒れたまま動かない人影。


 胸が赤く染まって、穴が開いて見えた。


 力なく投げ出された手の中には、山百合のような形の金色の花。


「……ローザ……?」


 自分の声がかすれて、地面に力なくぶつかって消えた。

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