第5話 魔術書
目を開くと、警備員の大東がそこにいた。両眉を広げた人懐っこい笑顔を俺に向けている。
「あ、どうも」
悪夢の
「荒川さん、このところ、毎日遅くまで頑張っていますからね。かなりお疲れなのではないですか?」
大東は言った。
「どうも、ご心配おかけしてすみません。ちょっとしたプロジェクトに取り組んでいるところなんですよ」
「そうなんですか、それはご苦労様です」
もちろん、俺は嘘をついていた。今取り組んでいるプロジェクトなんか存在しない。この場を取りつくろうための嘘だ。
ただ、ハードワークしているのは本当だ。仕事している間は、夢のことが忘れられる。同僚や先輩からもらえるだけ仕事をもらい深夜まで働く日々が続いている。
とはいえ、この大東は俺の嘘を見抜いているに違いない。俺は、彼の素性を知っている。元は大手テック関連の企業でSEをしていた男だ。俺のデスクトップをチラリとでも目にすれば、何をしているのか立ち所に把握することだろう。そして彼は……。
「あ、そうそう」
辞去したかに思われた大東はくるりときびすを返した。何かを後ろ手に、こちらに近づいてくる。
「この部署の床に落ちていたんですよ。これってもしかして、荒川さんのだったりしますか?」
大東の手が、オフホワイトのテーブルの上に置かれた。その手がどかされた時、思わず俺は声をあげそうになった。
それは、手のひら大のオーナメントだった。豚の顔をした二足歩行の生き物が、切り株に座って読書している瞬間を切り取ったものだった。俺は過去にそれを見ている。つい三日ほど前に。
探るような目つきが俺に突き刺さる。
大東は花枝の夫だった。
「本当ですか? 心当たりありませんか?」
大東の顔から笑顔が消えた。
「ええ。本当に知りません」
自分でも信じられないほど冷たい声色だった。全てを拒絶し、排除する氷のように冷たい声色だった。
花枝は、自分の夫は自分に関心がないから浮気がバレることはないと言っていた――あの人は鈍感だし、仮にバレても何も言わないんじゃない? そういう男なのよ、あの人。
今になって、俺は思う。大東は、花枝が見積もっていた以上にキレ者なのだろうと。
「そうですか。お忙しいところを大変失礼しました。これは……そうですね。この部署の誰かの持ち物だと思いますので、コピー機の横に置いておきます」
大東は、眉を持ち上げた柔和な笑顔に戻ると、今度こそこのオフィスをあとにした。
豚と目が合う。木製で、その木目を活かすように、豚の顔には深いシワが幾重にも刻まれていた。豚の姿を忠実に再現した造形には、可愛げというものは一ミリもなく、ただただ奇怪さだけが漂っていた。
息を呑む。夢に出てきた豚そっくりじゃないか。豚がその膝の上で開いている本が、目に入った。奇妙な本だった。本のページには、驚くほど細かい筆致により、赤いインクで何か書かれていたが、文字とも記号ともつかず、その意味を知ることはできなかった。表紙はというと、墨を塗りたくったような鈍い黒色をしていた。
それにしても、どういうコンセプトのオーナメントなのだろうか? この豚は何を喜んでいるんだ。そんなに面白い内容の本なのか? ゾクリ。赤いインクが血を連想させ、さっき見た夢と相まって、背筋が凍るような予感が俺を襲った。
――魔術書。
そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
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