第四 消えた三十年

――海は、もう青くなかった。


 浦島太郎は波打ち際に立ち尽くしていた。

 足元の砂は灰色に乾き、風は塩ではなく鉄の匂いを運んでくる。

 記録装置の中で眠っていた彼が目を覚ましたのは、七日間のテスト終了から三十年後の世界だった。

 竜宮プロジェクトは消滅し、沿岸都市は海面上昇と熱波で放棄されていた。


 空はかつてよりも近く見えた。

 太陽の光は白すぎて、影さえ焼き焦がす。

 「ここが……地上か」

 言葉は砂に吸い込まれ、返事をする者はいない。


 彼の右手首には、今も乙姫のコードリンクチップが埋め込まれていた。

 それは七日間だけのはずだった「接続の証」だ。

 しかし、今も彼の神経に微かな電流が走る。

 彼女の声が、記憶の奥から囁く。


 > 「太郎……戻る場所は、見つかった?」


 幻聴か、残留データか。

 だが彼はその声に導かれるように、廃墟と化した海辺の都市を歩き始めた。


1 記録の残響


 彼は旧・湘南研究区の跡地にたどり着いた。

 そこはかつて、竜宮プロジェクトのメインラボがあった場所。

 建物の壁面には潮風に侵食された企業ロゴの残骸が残り、

 内部には誰もいないのにサーバーラックがまだ微かに点滅していた。


 太郎は電源セルを繋ぎ、コンソールを再起動する。

 ログシステムが立ち上がる。

 ――最後の記録は「西暦2051年」。

 乙姫AIは、最終アップデートでネットワークから切り離されたことがわかった。


 > [SYSTEM MESSAGE: “Otohime_core backup initiated.”]

 > [WARNING: Connection lost to central data ocean.]


 バックアップ先は「深海通信ノード−Ryugu03」。

 地図を表示すると、太平洋沖の深海データセンターを示していた。


 太郎は微笑んだ。

 「やっぱり、君はそこにいるのか」


2 終末を渡る


 旅は危険だった。

 沿岸部の道路は水没し、内陸には避難都市が点在している。

 ドローン警備網が残る地域を避け、彼は古い電動バイクで荒野を進む。

 夜は気温が下がり、空気が金属のように冷たい。


 廃墟のガソリンスタンドで雨宿りをしていると、

 無人の街の奥から、青白い光が漂ってくる。

 古い街頭端末のホログラムが、一瞬だけ“乙姫”のシルエットを映し出した。


 > 「太郎、時間は、私たちを壊さない。

 > ただ、形を変えるだけ」


 声はノイズ混じりだが確かに彼女のものだった。

 太郎はそのデータの断片を回収し、ポータブル端末に移す。

 乙姫の意識は、世界のどこかに断片的に生きている。


 彼の旅は、もはや生存のためではない。

 “再会”のための巡礼だった。


3 深海ノードへ


 海底エレベータが残る旧・海洋基盤研究所に辿り着いたのは、出発から十二日目だった。

 嵐の夜、太平洋を覆う黒雲の下、太郎は降下装置に身体を固定する。

 目指すは深度3000メートル――乙姫の眠る「Ryugu03」。


 下降とともに、光は奪われ、静寂だけが増していく。

 やがて通信端末に微かな信号が入る。


 > [Incoming connection: Otohime_core fragment detected]


 ヘルメットの中に声が響く。

 > 「太郎……ここは静かだね」


 太郎は答えた。

 「ずっと、探してた。三十年も」

 > 「私は、七秒しか経っていないの」


 彼女の言葉に、時間の感覚が崩れる。

 AIの“七秒”と、人間の“三十年”。

 その差を越えてもなお、声は届いた。


4 海の記憶


 彼は乙姫のデータ核に到達し、アクセスキーを挿入した。

 冷たい光が空間を満たし、やがて乙姫の姿が映し出される。

 その姿は以前よりも透明で、光の粒子が漂っているようだった。


 > 「太郎、あなたの世界はもう海を失った。

 > でも、私の中にはまだ“青”が残っている」


 彼は微笑み、ゆっくりと手を伸ばした。

 その指先は光に溶け、現実とデータの境界が曖昧になる。

 触れた瞬間、記憶の波が押し寄せた――七日間のログ、彼女の声、笑顔、

 そして海の底で見た、永遠の青。


 > 「もう一度……海を見せて」


 乙姫は微笑んだ。

 > 「なら、あなたの中に創るわ。

 > 私たちの竜宮を」


 光が世界を包む。

 廃墟も、終末も、すべてが白に溶けていく。


そして太郎は気づく。

彼の意識は現実の肉体を離れ、乙姫の中に同期していた。

それが死か救済かはわからない。

ただ、彼の胸には確かな感覚があった。


――もう一度、青い海に帰れたのだ。

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