第13話

 市瀬が話を聞きたいという誘いに乗ってきたのは、憂さ晴らしにぴったりのサンドバッグを見つけたと思ったからだろう。


 そんなことを考えながら、和田と渡利と一緒に電車に揺られていた。ぶたれた頬はひりついていたが、自動販売機で買ったお茶のペットボトルの冷たさでどうにか中和しようとしていた。


 和田と渡利は、気まずそうに視線を交わしたり、話しかけようとしてやめたりと、何をすべきか考えあぐねている様子だった。急にいなくなったと思ったら頬を腫らして帰ってきて、何があったか言いたくないと突っぱねた人に対して当然の反応だった。


 寮に帰りたくなかったから、最寄り駅に着いても電車を降りたくなかった。でも、このまま知らない場所に行くのも嫌で、仕方なく電車を降りた。


「保健室行く?」


 寮までの道で、渡利が尋ねてきた。

 市瀬とは剣を向けあっているかのように言葉を交わしていたので、純粋な優しさに戸惑いさえ覚えた。


「大丈夫、ありがとう」


 ぎこちなく微笑みかけると、二人はあからさまにほっとした顔つきになった。かなり険悪な空気を醸し出していたことに気づかされ、いたたまれない気持ちになる。

 二人とは引き続き良好な関係でいたい。だが、このままではわだかまりが残るだろう。何か喋らなければいけない、話題を提供しなければ。


「あ、のさ。説明会の前に市瀬先輩のことを調べてもらったけどさ、そもそも俺は市瀬先輩のことあんまり知らなくて。もし市瀬先輩のこと知ってたら、教えてほしいんだけど……」


 言い終えてすぐ後悔する。あまり良い話題ではなかったし、自分の知りたいことを優先してしまった。


「私はほとんど交流なかったけど、渡利ちゃんは知ってるよね?」


 意外と和田は普通に話題に乗ってきてくれた。話を振られた渡利が苦々しい笑みを浮かべながら頷く。


「うん、バドミントン部で一緒だった時があるよ。市瀬先輩は二年の途中でやめたから、少ししか知らないけどね。親がすごく厳しいって言ってたのを聞いたことがあるかな。とにかく良い成績を取らないと怒られるって。でも、先輩はあんまり勉強が得意じゃなかったから、成績維持のために部活辞めたの。不倫してたって聞いた時はとにかくびっくりしたなー。男の人が苦手そうだったし、しかも相手は梶尾だし」


 市瀬が梶尾を蛇蝎の如くに嫌っていたことと、勉強が不得意なのに好成績を親から求めらていること。それらが結びついて、梶尾は市瀬に単位をちらつかせて言うことを聞かせていたのではないか、という嫌な憶測が頭の中で出来上がった。そうだったとしたら、市瀬のあの態度も頷ける。


「……教えてくれてありがとう」


 和田と渡利が女子寮へ帰るのを見送り、男子寮へと向かった。


 時刻を確認すると、ちょうど夕食の時間になりそうである。しかし、市瀬の食べ残しを全て平らげてきたため、あまり腹は空いておらず、食堂に行く気にはならなかった。


 じゃあ部屋に、と思ったが足が止まる。部屋にはおそらく恭一がいるが、しばらく顔を合わせたくない。腫れた頬を見られたら、彼は詰め寄ってくるに違いないからだ。


 仕方がないので、談話室へ行くことにした。夕食時の男子寮の談話室に、人などいる筈がない。一人で静かに考え事をしたい時にはぴったりだ。


 寮に到着すると、ちょうど夕食のアナウンスが聞こえてきた。一階にある食堂へ人がわらわらと移動していく。彼らに気づかれないよう、エントランス脇の待ち合いスペースの端のソファーに腰掛けてやり過ごした。


 人の流れが途絶えたころ、スマホが振動した。見ると、恭一からのメッセージである。“もう戻ってるか“、とあるが、見なかったふりをしてポケットにスマホを戻した。


「おい」


 階段ホールの方から鋭い声が飛んできて、びくりと肩が震えた。そちらを見るまでもなく声の主が誰かわかった。


 恭一が長い脚でつかつか歩み寄ってくる。ああいう歩き方をする人を見るのは、本日二回目である。ああ、怖い。ビンタされた痛みが蘇ってくる。


 とっさに頬杖をついて頬を隠したとき、恭一が目の前で立ち止まった。


「何無視してんだよ」

「あとで返事しようと思ってた」


 宿題を後回しにしている子供みたいな返事をしてしまった。たぶん彼は、無視してスマホを仕舞った瞬間も目撃しているのに。


「……その手、どうした?」


 恭一の右手の甲に大き目の絆創膏が貼られている。朝会った時にはなかったものだ。


 恭一はさっと右手を後ろに隠した。焦りのにじむ表情が、今度は一転して驚きに変わる。


「おまえこそのその顔どうしたんだよ」


 あ、と思った時には遅かった。恭一の手に触ろうとして、つい頬を隠していた手を伸ばして、赤い頬を露わにしてしまった。


 嫌な沈黙が恭一との間に横たわる。


 自分の話はしたくないが、相手の話はどうにか聞き出したい。お互い似たようなことを考えていると、手に取るようにわかった。


「夕飯、食べに行こう」


 そう言って立ち上がり、恭一の横をすり抜けて歩き出す。恭一も遅れてついてきた。

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