第46話 寄り添いの臨界点
夜の《ハート・ラボ》は、いつになく静かだった。
昼間の雨が上がったあと、窓ガラスに街の灯りが滲んでいる。
コーヒーメーカーの音だけが、薄暗いオフィスに小さく響いた。
白石真由は、デスクの端に座ってノートパソコンを閉じかけたそのとき、
受信音が鳴った。
――新規依頼:恋愛支援プログラム 申込フォーム。
差出人の名前を見た瞬間、真由の指が止まった。
画面には、こう記されていた。
> 申込者名:白石 玲奈
> 年齢:27歳
> 相談内容:元婚約者との関係を、もう一度やり直したい。
> 紹介者:桐谷真司先生
その文字列を、真由は信じられない思いで見つめた。
「……先生が?」
ちょうど帰り支度をしていた桐谷が、顔を上げた。
「どうした?」
真由は、モニターを指で示した。
桐谷の目が、一瞬だけ鋭くなる。
「ああ……その名前、覚えてるよ。」
「知ってるんですか?」
「昔、担当してたクライアントだ。三年前。
当時は、婚約破棄のあとで、かなり心が不安定だった。」
「でも、なぜいま、再依頼を……?」
「わからない。」
桐谷は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「ただ、君に担当してもらうのがいい気がする。」
「え?」
「玲奈さんは、“女性の支援者”を求めてる気がする。
彼女、君と少し似てるんだ。」
真由は、何か言いかけてやめた。
似ている――その言葉が胸の奥に残った。
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数日後。
面談室のドアをノックする音がした。
「失礼します。」
入ってきた女性は、真由とほぼ同年代。
淡いベージュのコート、落ち着いた瞳。
どこかで見覚えがあるような、繊細な空気を纏っていた。
「白石先生ですね。……はじめまして。」
「こちらこそ。どうぞ、おかけください。」
玲奈は椅子に座ると、小さく息を整えた。
「……彼とは、別れて三年になります。
でも最近、夢に見るようになってしまって。
“もう一度、あの人に会いたい”って思う自分が、まだいるんです。」
真由はメモを取りながら、静かに頷いた。
まるで、自分の中にも同じ痛みを見つけたような感覚だった。
「その“会いたい”気持ち、責めなくていいですよ。」
「でも、前に進めないのは、弱い証拠じゃないですか?」
「いいえ。
“前に進む”って、“過去と和解する”ことでもあると思います。」
玲奈の目に、ほんの少し涙が光った。
「……桐谷先生、やっぱりすごいですね。
“もう一度、信じてみていい”って言われた言葉、ずっと覚えてて。」
真由の胸に、何かが刺さった。
彼女が話す“桐谷先生”は、自分が知っている人と同じ名前で、
でも、まるで別の顔をしているように感じた。
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その夜。
オフィスの灯りが落ちたあと、真司が一人で書類をまとめていると、
真由が静かに戻ってきた。
「先生。」
「面談、どうだった?」
「……順調です。彼女、すごく素直な人ですね。」
「そうか。」
少しの沈黙。
真由は、テーブルの縁に手を置いた。
「先生は、どうして私に任せたんですか?」
「玲奈さんは、俺に“支えられた人”だ。
でも、いま必要なのは、俺じゃなくて――誰かに“寄り添ってもらうこと”。
それが君なら、きっとできると思った。」
真由は視線を落とし、
少しだけ笑った。
「……それ、信頼として受け取っておきます。」
「そのつもりだ。」
窓の外で、風が街路樹を揺らした。
ビルの灯りが反射して、二人の間に淡い光が落ちる。
「先生。」
「ん?」
「“支えること”と“寄り添うこと”の違い、
まだちゃんと分からないです。」
桐谷は少し考え、
静かに答えた。
「寄り添いには、臨界点がある。
越えたら“恋”になる。
――俺も、昔、一度だけ越えたことがある。」
真由は目を伏せた。
心臓が、小さく跳ねた。
夜風がカーテンを揺らし、
部屋の灯りがゆらめく。
――支援と感情の境界。
その線が、もう見えなくなりかけていた。
(つづく)
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📘次回予告(第47話)
「越境 ― 禁じられた面談」
白石が担当する玲奈の面談に、桐谷が同席を申し出る。
“支援者としての再会”が、
ふたりの心の臨界点を越えていく――。
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