第45話 観察実習 ― 雨上がりのカフェにて
午後の雨は、ようやく上がっていた。
代々木の街路樹が濡れた枝を光らせ、
歩道の水たまりに高層ビルの影がゆらめいている。
《ハート・ラボ》の前で、白石真由が傘を閉じた。
空気はまだ少し湿っていて、アスファルトの匂いにコーヒーの香りが混じる。
「先生。行きましょうか。」
「“実習”だっけ?」
「ええ。観察実習です。」
少し誇らしげに言う。
「カフェで、人の表情を読む練習をしてみたいんです。」
「また、口実つくったな。」
「便利な言葉ですから。」
二人は笑い、傘を持たずに歩き出した。
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店の名前は《ラ・シエスタ》。
古いレンガ造りのビルの二階にある、静かなカフェ。
窓際の席からは、雨上がりの新宿のビル群が遠くに見える。
白いカップから立ちのぼる湯気が、午後の光に淡く透けていた。
雨のしずくがガラスをつたい、外の景色を歪める。
「……観察、始めましょうか。」
真由がノートを開き、ペンを構えた。
「ではまず、あの二人。」
真司が指さしたのは、窓際の向こうの席にいる男女。
カップを挟んで、彼女が微笑み、彼がやや俯いている。
「初デート、かな。」
「ええ、たぶん。」真由が小声で答える。
「でも、彼の手、膝の上で握りしめてます。緊張ですね。」
「彼女は笑ってるけど、視線が安定してない。
――“好意”より、“期待”のほうが強いかもしれない。」
真由がくすっと笑う。
「先生って、やっぱり“観察する目”が鋭いですね。」
「職業病だよ。」
「でも……先生自身が“観察される”のは、苦手そう。」
真司は一瞬、手を止めた。
「どうしてそう思う?」
「いつもクライアントの話を聞くとき、
少しだけ――自分の感情を、隠してる気がします。」
彼は少し息をつき、カップを持ち上げた。
湯気の向こうで、真由の瞳が静かに揺れている。
「……隠してるというより、整理してるんだと思う。
感情を見せた瞬間に、相手が迷うこともあるから。」
「でも、“迷う姿”も、支援の一部じゃないですか?」
その言葉に、真司は笑った。
「――やられたな。」
「観察実習ですから。」
ふたりの間に、沈黙が落ちた。
外では、雨粒がまたひとつ窓を叩く。
人々の足音、バリスタのミルの音、カップを置く小さな音。
すべてが、ゆっくりと時間を刻んでいた。
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「先生。」
「ん?」
「私、今日ちょっとだけ思いました。」
「何を?」
「“支援”って、観察じゃないのかもしれません。
――同じ景色を、同じタイミングで見ようとすること、かなって。」
真司はしばらく黙り、
窓の外の街を見つめた。
灰色の雲が割れ、
差し込んだ光がガラスの水滴に反射して、小さな虹を作った。
「……いい定義だな。」
「ほんとですか?」
「うん。たぶんそれが、“寄り添いの温度”の正体だ。」
真由は少しだけ頬を赤らめ、笑った。
真司は時計を見た。
「そろそろ、オフィス戻るか。」
「はい。」
席を立つとき、真由が静かに言った。
「今日の実習、私にとっては――“再会の練習”だった気がします。」
真司はその意味を問わず、
ただ、うなずいた。
店を出ると、雨上がりの風が二人の髪を揺らした。
代々木の街に、夕暮れの光が広がっていく。
――心の観察は、いつだって静かな余白の中で行われる。
その余白に、二人の距離が、また少しだけ近づいていた。
(つづく)
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📘次回予告(第46話)
「寄り添いの臨界点」
桐谷のもとに届いた、一通の古い依頼メール。
そこには、白石にとって避けて通れない“名前”が記されていた。
支援と想いの境界線が、いよいよ試される――。
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