第2話

『兵站なき基地(ベース)、指揮官なき部隊』

闇市(マーケット)は、坂上(50歳)の定義によれば「戦場」だった。

それも、指揮系統の混乱した、最悪の戦場だ。

早乙女蘭(さおとめらん)の後ろを数歩離れて歩きながら、彼は冷静に周囲を「解析」していた。

(……非効率、極まりない)

道は泥濘(ぬかるみ)、衛生観念は皆無。食料とガラクタと、おそらくは違法な薬品が、何の区分けもなく並べられている。

誰もが「今日」を生きることに必死で、「明日」の効率(リソース)を食いつぶしている。

すれ違う人々は、復員服の男、痩せこけた子供、派手な化粧だが着る物は粗末な女(パンパンガール、と脳が単語を弾き出す)。

そして、時折すれ違う、体格の良いGI(米兵)とMP(憲兵)。彼らこそが、この戦域における「ルール」であり、最強の「脅威(スレット)」だ。

(敵性勢力は多岐にわたる。在日外国人、旧来のテキヤ、新興の愚連隊……そして、先ほどの連中)

彼は、先ほど自分を囲んだ男たち――蘭が「九龍組(クリュウぐみ)」と呼んだ――の動きを反芻(はんすう)する。彼らの動きは統制が取れていなかった。ただの暴力だ。

だが、この混沌(カオス)の中では、統制の取れていない暴力こそが支配力(イニシアチブ)を持つ。

背中の仁王(いれずみ)が、汗でじっとりと張り付く。まるで異質な寄生生物だ。

彼が最も嫌悪した、非合理的な精神主義の象徴。それが今、自分の皮膚に刻まれている事実に、坂上は吐き気すら覚えていた。

「ここだよ」

蘭の声で、彼は思考を中断した。

目の前には、闇市の中ではひときわ大きく、しっかりとした造りのバラックがあった。

煤けてはいるが、「焼肉 早乙女」と書かれた立派な木製の看板が掲げられている。

「お疲れ様です、姐(ねえ)さん!」

ガラリ、と戸を開けると、中から威勢のいい、しかしどこか覇気のない声が飛んだ。

中は、土間の客席と、奥に続く住居スペース。昼間だというのに、客は誰もいない。

四人の若い男が、テーブルを拭いたり、七輪を磨いたりしている。皆、坂上(20歳の身体)と同じか、それより若く見える。誰もが痩せており、栄養状態は劣悪と見えた。

(……これが、「早乙女組」の全戦力か)

坂上(50歳)は、イージス艦の乗組員数百名を率いていた記憶と、目の前の現実を比較した。

戦力、4名。練度、不明(低いと推測)。士気、低下中。

そしてリーダーは、20歳の、義理人情だけを武器にしている女(ヒロイン)。

(……終わってるな)

男たちは、蘭の後ろにいる坂上を見て、一瞬顔をしかめた。

「チッ、また坂上か。姐さん、そいつに構うことないですぜ」

「どうせまた、酒でもせびりに来たんだろ」

この身体(20歳)の持ち主は、よほど信頼がなかったらしい。

「テツ、タケ。そんな言い方するんじゃない」

蘭が叱りつけると、二人は黙った。

「坂上は、今日は様子が違うんだ。……奥で、茶漬けでも出してあげて」

坂上は何も言わず、蘭に促されるまま奥の座敷――組の「事務所」と「居間」を兼ねたであろう六畳間――に通された。

すぐに、湯気の立つ茶漬け(白米ではなく麦飯に、申し訳程度の塩昆布が乗っている)が運ばれてくる。

「……いただきます」

50歳の坂上は、律儀に手を合わせ、かき込んだ。

20歳の身体は、飢えていた。カロリーバーでは到底満たされない、根本的な飢餓感だ。

熱い茶が、乾いた胃に染み渡る。

「……うまい」

それは、心の底からの、50年分の実感だった。

蘭は、彼の向かいに正座し、その異様な食べっぷりを静かに見つめていた。

「……アンタ、本当にどうしたんだい」

「……」

「今朝、九龍組の連中に叩きのめされて、どっかに頭でも打ったのかい?」

坂上は、最後の一粒まで飯をかき込むと、茶碗を置いた。

「……そうかもしれない」

嘘ではない。頭を打った以上の事態だ。

「記憶が、はっきりしない」

蘭は「やっぱりね」と小さく頷いた。

「無理もないよ。アンタ、特攻に行く前に戦争が終わって……ずっと死に場所を探してるみたいだったから」

「……」

「親父(おやじ)――先代が、そんなアンタを拾ってきたんだ。『こいつは俺が預かる』って。……なのに、親父は空襲で死んじまって、私だけが残った」

蘭は、焼肉屋の看板(のれん)を指差した。

「私は、この『早乙女組』の看板と、アンタたちみたいな行き場のない連中を守りたい。親父がそうしたみたいに。それが、私の『義理人情(スジ)』だと思ってる」

坂上は、彼女の目を真っ直ぐに見返した。

(義理人情。スジ。……最も非合理的な行動原理だ)

彼は、祖父が突っ込んだ「特攻」と同じ匂いを、彼女の言葉に感じた。自己犠牲。感情論。

「……それで、組は回っているのか」

「え?」

「この店が、シノギ(稼業)なんだろう。だが、客が一人もいない。先ほどの男たち(組員)も、飢えているように見えた。兵站(へいたん)が維持できなければ、部隊は壊滅する」

「へ、へいたん?」

蘭は、聞いたこともない言葉に目を丸くした。

「失礼」

坂上は立ち上がると、居間の隅にあった帳簿らしき和綴じの冊子を無遠慮に手に取った。

蘭が止める間もなく、彼は凄まジい速さでページをめくり始める。

(収入、微弱。支出、恒常的赤字。仕入れ、高騰……いや、停止している?)

「姐さん! 大変だ!」

その時、先ほどのテツという若い組員が、血相を変えて居間に飛び込んできた。

「九龍組の奴らだ! あいつら、闇市の入り口で、うちに品物を卸そうとしてた田中食肉(たなかしょうにく)のトラックを止めやがった!」

「なんだって!?」

蘭の顔色が変わる。

「『早乙女組に卸すなら、俺らがショバ代を貰う』とか言って……! このままじゃ、今日入るはずだった肉(タマ)が、全部奴らに持っていかれます!」

「なんて卑怯な……!」

蘭は拳を握りしめ、立ち上がった。

「テツ! タケ! 行くよ! 親父の代からの付き合いを、好きにさせるもんか!」

「お、押忍!」

組員たちが、角材やドスを隠し持ち、興奮して飛び出そうとする。

「待て」

低く、静かな、しかし有無を言わさぬ声が響いた。

坂上真一(50歳)だった。

「……なんだよ坂上! アンタは引っ込んでろ!」テツが怒鳴る。

坂上は、帳簿を閉じ、テツと蘭を冷徹な目で見据えた。

「現状を報告しろ」

「はあ!?」

「敵戦力は? 武装は? こちらの戦力は4名。相手が5名以上なら、正面からの衝突は『全滅』を意味する。それはお前が望む結果か?」

「な……」

「それは『義理人情』ではなく、『無謀』であり『犬死』だ。俺が最も嫌うものだ」

彼の言葉は、20歳の青年のものではなかった。

幾度もシミュレーションを繰り返し、部下の命を預かってきた、指揮官(コマンダー)のそれだった。

蘭が、その気迫に圧倒されて息を呑む。

「じゃ、じゃあ……どうしろって言うんだい! このままじゃ、うちは干上がる! 肉がなきゃ、焼肉屋は終わりだよ!」

坂上は、初めてこの世界に来て、口の端を微かに吊り上げた。

(なるほど。問題は明確だ)

「問題は『九龍組』ではない。問題は『兵站線の途絶』だ」

彼は、居間にあったチョーク(子供の落書き用か)を掴むと、畳の上に簡易な地図を描き始めた。闇市の入り口。田中食肉のルート。

「九龍組が『面(めん)』で闇市を支配しているわけではない。『点(ポイント)』を抑えているに過ぎない。ならば……」

坂上は、地図上の一点を、チョークで強く叩いた。

「我々は、敵の封鎖線(ブロックライン)を突破するのではない。新たな補給ルート(サプライチェーン)を、今から構築する」

彼の目は、もはや死に場所を探す特攻崩れのそれではなく、複雑な戦局を解き明かさんとする、イージス艦長の目になっていた。

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